専行寺の歴史と寺宝

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専行寺の歴史

専行寺は、開基・成覚坊釋了察法師じょうかくぼうしゃくりょうさつほうしによって、1620年(元和六)武蔵国豊島郡江戸番町三丁目谷六丁目(現在の東京都千代田区二番町付近)に創建され、その後寛永年間に、攝取山・専行寺せっしゅざん・せんぎょうじと号するようになった。

1717年(亨保二)に同地で類焼に遭い、翌年新宿牛込原町の現今の地に移転している。

現在の本堂は1977年(昭和五十二)に再建されたものである。開創以来400年にわたり、お念仏の教えを伝える道場として興隆し、多くのご門徒と仏縁を結んでいる。

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250年の風雪に耐えた旧本堂 1940年(昭和15)頃撮影

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現本堂外観

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本堂内陣

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書院
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茶室

専行寺の寺宝

「阿弥陀如来立像」(木像・御本尊)
「阿弥陀如来立像」(金銅仏)
「阿弥陀如来立像」(木像・お内仏御本尊)
「南無阿弥陀仏・六字名号」(本願寺八世蓮如れんにょ上人御真筆)
「宗祖親鸞聖人御影」
「東本願寺十四世・琢如たくにょ上人御影」
「聖徳太子掛軸図」
「七高僧掛軸図」
松林桂月*(1876~1963)作「龍画」 ほか書状

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阿弥陀如来立像(金銅仏)
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南無阿弥陀仏・六字名号

*【松林桂月画伯と専行寺の因縁】

「最後の文人画家」とも評される松林桂月画伯(1876~1963)は、1893年(明治26)に郷里・山口県萩から上京して画家・野口幽谷に師事し、その門下で修業されたと伝えられています。

当時の下宿は新宿牛込の喜久井町にありましたが、縁あって専行寺にも一年ほど住んでおられました。若き日の貧窮の暮らしぶりと、当寺に寄寓することになった経緯について、遺稿『櫻雲洞随録』に「下宿時代の辛苦」と題しユニークなエピソードを添えて、以下のように述懐されています。なお文中の(※注)は専行寺が記したものです。

◆◆◆
「一番困つたのは、夏の蚊帳であつた。布団屋から借りると、当時八十銭であつた。是ればかりはどうにも仕方がないので、勉強も、眠ることも出来ない。隣室の早稲田通いの友人は、僕の部屋に寝に来いと云うて呉れるけれども、何うも持つて生れた痩我慢と云うものは仕方がない、その厚意をも謝絶して、とうとう一名案を考え出したのである。

それは、部屋の障子を二枚外して、屋根形にそれを寄せ掛け、中程の処をヘコ帯で〆めて、前後の口へ浴衣を掛けると、完全な小屋掛けになって、其の中に裸体で寝るのである。一つも息苦しくもなく、涼しいこと夥しい。下宿屋の女中君が之を見て感心した、画を描く方の考えは実に巧まいものですねと褒められた。同宿の画友白峰、緑雲二子も腹を抱えて大笑い、予の名案に驚いて、今でも塾の一つ話にして居る」

<中略>

「此の貧乏生活が約二年続いた。幽谷先生も素は大工出身で、大抵の貧乏は経験済みであつた様であるが、私の此の有様を聞かれて、大いに同情せられたのであろう、月謝も最初の二、三ヶ月収めた丈けで免除せられ、種々と氣を付けてくれられた。

喜久井町の近所に、原町の專行寺と云う真宗のお寺があり、平松香然(※注)と云う住職 が居られた。フトした事から私の事を聞かれて、態々尋ねて来られ、談窮乏の生活に及んで、大いに同情を寄せられ、寺の一室を無料で提供せられた上、食費は実費と云うことで、殆ど家族的に待遇され、約一年位その厚意によつて、私は勉強に専念することが出来たのであつた。香然師没後は是信師が継がれ、今は又其の息が当主で、私は遂に三代目まで懇意にして居る。今でも時々尋ねると、当時の襖や衝立なぞに私のまずい画が残って居る。何時か画き直したいと思つているが、住職は此の儘の方が、私との因縁を知るが為には却て宜しいと云うて居られる」

『松林桂月遺稿・櫻雲洞随録』(松林清風編・二玄社・1997)より抄出
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※注 平松香然は専行寺第十一世住職。現住職・平松正信の曾祖父にあたる。