2018年10月の言葉

救いとは
答えでなく問いが見つかること
答えは一生を決めつけ
問いは一生を歩ましめる

仏光寺 八行標語


2018年9月の言葉

生かされているということは 
結論ではなく 
出発点である 

池田勇諦


2018年8月の言葉

いのちが一番大切だと
思っていたころ
生きるのが苦しかった。
いのちより大切なものがある
と知った日、
生きているのが嬉しかった。

星野富弘


「お盆法要」が勤められました。

7月8日(日)
お盆法要(盂蘭盆会/うらぼんえ)が勤められ、新盆を迎えられた皆様をはじめ、大勢の方がお参りくださいました。ご法話は藤本愛吉先生(三重県・正寶寺住職 / 大谷専修学院 元指導主事)にご出講いただきました。

梵語(古代インド語)の「ウランバーナ」を音写したものが「盂蘭盆」で、それをお盆と称しています。「ウランバーナ」の原意は「逆さ吊り(倒懸/とうけん)の苦しみ」で、それは「真実に背いている私たちの姿」であると教えられます。

お盆はそもそも『仏説盂蘭盆経』に説かれている釈尊の弟子・目連尊者(もくれんそんじゃ)の物語に由来します。目連尊者の母は餓鬼の世界に落ち苦しんでいました。(盂蘭盆はその姿〈倒懸〉を意味しています)。目連は母を助けたいと食物を運びますが、すべてが火や灰に変わってしまいます。どうすることもできない目連は師・釈尊を訪ねました。すると釈尊から安居(あんご)の最終日(7月15日)、百味の飲食を盆に盛り、仏や菩薩や僧などのすべての聖衆に供えるよう教えられます。目連がそれを実践すると、仏法僧の三宝の功徳により、母は餓鬼の世界から救われ、目連自身もまた愛憎の執われから解放されたといいます。目連が最後に釈尊に教えを求めたように、真実の教えにふれることがなければ、私たち一人ひとりの真の安心が成り立たないことを教えています。

私たち真宗門徒にとってのお盆法要(盂蘭盆会)は単なる先祖供養の行事ではありません。「歓喜会(かんぎえ)」とも称されるように、私にまで届けられているいのちが、いかに稀有なものであり、尊いものであるかを教えられる仏事です。そのいのちをたずね、仏法を聞き続け、私自身がお念仏を喜べる身となることを、亡き方々から願われているのです。お盆は私のための仏事だと気付かされることです。(参照 真宗大谷派東京4組発行『真宗門徒の葬儀』)

次回の定例法要は、9月23日(秋分の日)秋彼岸法要です。ぜひお参りください。

2018お盆1
2018お盆2
2018お盆5
2018お盆6
2018お盆3

 


2018年7月の言葉

我が身に起こるいちいちの出来事が
私を照らす出来事
我が身におこる全てが
私自身のいのちの内容だと
そう受け取れる世界が開かれるとは
予想だにしなかった
何という世界を賜ったのだろう
南無阿弥陀仏

志慶眞文雄


2018年5月の言葉

世の中に
きょうより他は
なかりけり
きのうは過ぎつ
あすは来たらず

篤 明快


「永代経法要」が勤められました。

5月13日(日)
永代経法要が勤められ、大勢の皆様がお参りくださいました。
これまで専行寺にご縁のあったすべての方のご法事であり、永代にわたってお経が読み継がれ、教えが伝えられていくことを願って勤められます。
ご法話は松井憲一先生(京都・道光舎主宰)から「共に凡夫」をテーマにお話しいただきました。

法話聞書(文責は専行寺にあります)

・大切な方とのお別れがご縁で今日お参りいただいた方も多かろうと思います。「あの人はもういない。温もりを感じることができない」というのは大きな悲しみであり損失ですが、お別れをご縁にこうして手を合わせ南無阿弥陀仏と申すことは、生きている時とは違う新しい関係の出会いが始まっているのではないでしょうか。亡くなられてみて初めて涙して「ありがとう」「ごめんなさい」と言える関係があるものです。

・「もしもこの世が喜びばかりなら、人々は勇気と忍耐を学ばなかっただろう」ヘレンケラーの言葉です。また「死を師として生きよ」とある先生が仰っていました。亡くなっていかれた方々は必ず私たちに願いをかけていかれたはずです。その願いをもう一度聞き直すことが、遺された私たちの責任です。「弔い(とむらい)」とはもともと「訪う(とぶらう)」訪ねていくということが元です。「安らかにお眠りください」とよく言いますけれど、「あなたこそ安らかに大切に生きてください」と向こうから願いをかけられているんです。そのことに気付けるかどうかが大切なことです。その気付き、仏さまと私との応答が南無阿弥陀仏であります。

・「自力というは、我が身をたのみ、我が心をたのむ、我が力をはげみ、我がさまざまの善根をたのむひとなり」親鸞聖人の言葉です。「身」を使い「心」をはたらかせ「力」を注ぎ「善根」を積み重ねる。その行為そのものは大切なことです。その行為を「我をたのむ道具」に利用している、そのことが自力だと指摘しているのです。自力とは「我をたのむ人」だと。この「我」が問題なんです。

・「人皆心あり、心おのおの執るところあり。彼是すれば則ち我は非す。我是すれば則ち彼は非す。我必ずしも聖に非ず、彼必ずしも愚に非ず、共に是れ凡夫ならくのみ。」聖徳太子『十七条憲法』第十条の一節です。「皆それぞれ自分中心にモノを考える。だから私が良いと言ったら彼は悪いと言う。彼が良いと言ったら私は悪いという。いつもアベコベになる。けれども私は必ずしも聖人でもないし、彼も必ずしも愚かな人でもない。共に凡夫だ」と。我を中心にしか生きられない凡夫である、このことに気付くかどうかという問題です。

・「請うなかれ、求むるなかれ。なんじ何の不足かある。もし不足ありと思わば。これなんじの不信にあらずや。如来は、なんじがために必要なるものをなんじに賦与したるにあらずや。もしその賦与において不充分なるも、なんじは決してこれ以外に満足を得ること能わざるにあらやず」清沢満之先生の『絶対他力の大道』の一節です。特別に自分の都合のいい事だけを請い求めてはいけません。もし不足があるなら、生かされているいのちに対する不信ではないのか。無量寿如来・仏は私たちに必要なものを充分に与えてくださっているではないか、今あるこの私の現実をいただく以外にたすかる道はありません。今この私の身をいただくという時に、「共に凡夫」と頷いていく眼差しが要であることを教えていただいているのです。

※次回の定例法要は、7月8日(日)に勤められるお盆法要です。法話は藤本愛吉先生(大谷専修学院 元指導主事・三重 正寶寺住職)。ぜひお参りください。

2016報恩講 風鐸
2018永代経1
2018永代経4
2018永代経3
2018永代経5

「春彼岸法要」が勤められました。

3月21日(春分の日)

春の彼岸法要が勤められ、大勢の皆様にお参りいただきました。仏前で手を合わせてお念仏申すご縁をいただくということは、私たちを導いてくださる諸仏として亡き人と出会う、新しい関係の始まりでありましょう。ご法話は「真宗門徒の葬儀―弔うということ―」専行寺住職(平松正信)が勤めました。

〈法話聞書〉(文責は専行寺にあります)

「弔う(とむらう)」とは「人の死を悲しみいたむ」という意味ですが、「訪う(とぶらう)」という言葉に通じています。「亡き人のおこころを訪ねていく」「亡き人の本当の願いにふれる」ことが供養の原点と言えるのではないでしょうか。

一般的に「供養」というと、寺でお経をあげてもらうというイメージですね。儀式としては、仏さまに向かって私たちがお勤めをしてさしあげるという形です。死者の冥福を祈る「追善供養」というひとつの伝統がありますが、その典型です。ところが、「供養」という言葉の原語はプージャーと発音される古いインドの言葉で、「敬い」という意味です。尊敬をもってねんごろにもてなす。つまり三宝(仏・法・僧)に対する「敬い」の具体的な表現として、香・華・灯明などをお供えしたり読経したりすることが供養ということなのです。私たちは読経を供養の手段にしてしまっていないか。そのことをむしろ仏さまから問いかけられているのでしょう。

「頭を下げる」と「頭が下がる」は違います。「頭を下げる」というのは、下げようと思えばいつでも下げられます。「頭が下がる」のは、頭が下がるものとの出遇いがあって初めて成り立つことです。私たちが本当に敬うべきものに出遇うことが本当の意味での供養なのです。その意味で、仏法聴聞という「聞法供養」と、わが身を懺悔し仏を讃嘆する「讃嘆供養」ということが、お念仏の伝統の中で大切に教えられてきました。

葬儀にまつわるさまざまな習俗(迷信)があります。「友引に葬儀を出すと故人が友を引く」という語呂合わせや「拾骨の箸渡し」「お清め」等々。死に対する怖れや不安から「死は穢れである(死穢)」という考え方となり「お清め」が必要だということになっています。しかし、私たちが抱える死への怖れや不安は、このようなおまじないのような行為で本当に解決するのでしょうか。

清沢満之師は「生のみが我等にあらず、死もまた我等なり」と仰いました。仏教では死を穢れとして受け止めることはありません。死に対する怖れや不安を本当の意味で超えていく眼差しを与えてくれるものです。「生死一如」という言葉の通り、私たちの生と死は一如(ひとつのごとし)、一枚の紙の表裏のようなものです。自分の母親のお腹の中でいのちをいただいた瞬間から、死と共に歩んでいます。生だけでなく死するということも含めて、いのちの厳粛な営みです。床の間の掛軸は表側の紙だけでは成り立ちません。表側の紙に何枚もの紙が裏打ちされてやっと掛軸が完成します。私たちの人生を掛軸に例えるならば、表側が生、裏側が死でありましょう。死という裏打ち、つまり死から生を見つめる眼差しをいただいて、生きることがあきらかになる。「殺」は「生」を奪うものですが、「死」は「生」を照らし出すものなのです。

「あなたはこの限りある生をどう生きていくのですか?」大切な方の「死」が私たちの「生」にこのような厳粛な問いを与えてくださいます。悲しみを縁として、それぞれが自分の生きざまを教えにたずねていく出発点が葬儀なのです。

あるお寺の掲示板に書かれていた言葉です。

「南無のない阿弥陀は死後の観念。阿弥陀のない南無は現世の利益」

念仏申すといっても、南無(帰命)がなければ、阿弥陀仏に死後の往生を願うだけのこと。阿弥陀仏(本願)がはっきりしなければ、自我中心の現世利益に過ぎない。信という形をとりながら、どちらも自分の生き方が問われることがないという厳しいお言葉です。

讃嘆供養とは、讃嘆と懺悔がひとつになっている仏事だと教えられます。どこまでも「自分が可愛い」というところで生きている私たち。大切な方の死がそんな私たちの懺悔のこころをも引き出してくださる。供養されているのは私たちなのでしょう。「えらばず、きらわず、みすてず」という阿弥陀の本願にふれ、「えらび、きらい、みすてる」私の生き方が問い返されるのです。

「供養」とは、亡き人の本当の願いを訪ねていくことであり、仏法聴聞(読経)によって、亡き人と遺った私たちが真に出遇うこと、この私の生きざまを照らしてくださる仏さまであったと深く拝めることによって成り立つことなのです。

※次回の定例法要は、5月13日(日)に勤められる永代経法要。ご法話は「共に凡夫」松井憲一先生(京都・道光舎主宰)です。ぜひお参りください。

 

2018春彼岸2
2018春彼岸
2018春彼岸3
2018春彼岸5
2018春彼岸6

2018年4月の言葉

死にむかって
進んでいるのではない
今をもらって
生きているのだ

鈴木章子


2018年2月の言葉

かけがえのない 
自分の人生を
そのまま受け取れない
自分がいる

二階堂行邦