「秋彼岸法要」が勤められました。

2016年10月15日

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9月22日(木)秋分の日

秋の彼岸法要が勤められました。雨の中を大勢の方がお参りくださいました。
仏前で手を合わせてお念仏申すご縁をいただくことは、私たちを導いてくださる諸仏として亡き人と出遇い直す新しい関係の始まりです。竹部俊惠先生(富山 妙蓮寺住職・本願寺横浜別院 前輪番)にご出講いただきました。

〈法話聞書〉
・お彼岸は春分・秋分を中心とした7日間の日本独自の行事です。「彼岸」という言葉は私たちにとってどういう願いが込められた言葉なのでしょうか。真西に日が沈む日です。彼岸とは向こう岸。「波羅蜜多」と音写されたインドの言葉で、生死を超えた真実の世界。「浄土」です。此岸とはこちら岸。「娑婆」と音写されたインドの言葉で、苦しみ堪え忍ぶ場所。「忍土」と意訳されました。そしてもうひとつの意味として、生死輪廻を繰り返すことがらを通して、「お釈迦様が人間を教化する場所」だと。現実社会に生きる人を教化する場所だと教えられるのです。

・今春、本願寺の別院での勤めを終え、横浜から井波に戻った私にこんな言葉をかけてくれた農家のご門徒がありました。
『そうか帰ってきたか。ご苦労なことやったなぁ。こっからが娑婆やぞ』
どういう意味かすぐにはわかりませんでした。私は別院勤めの前は、教員と寺の住職の二足の草鞋を履く生活を長くしていました。44年間ずっと勤め人だったわけです。いわば娑婆の勤めを終えたと思っていた私に、こういう言葉をかけてくれたのです。それは「誰かに指図され、何かの決まりによって動いていた人生はこれで終わりだ。これからは自分自身として、あらためて縁ある人たちとの出遇いの場を大切に歩んでいってほしい」これからがいよいよ娑婆だ、教化される現場なんだと。そんな願いのこもった言葉だといただくことができました。

・「前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続無窮にして、願わくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり、と」
(『安楽集』道綽禅師)
導き尋ねるという歩みが「連続無窮」に絶えることなく続いて、仏道が途絶えることがないことを願いますと。そのことによって「無辺の生死海を尽く」すといわれるのです。「生死海」とは迷いの海ということです。仏教では迷いを、輪廻とか流転とか生死といいます。《中略》生死海というのはまさに自分ではまっすぐ進んでいるつもりでいながら、同じ所をグルグル回り、その回っていることにも気がつかない。しかしその迷いの姿を教えられることにより、迷いの世界を目覚めの場所に変えていくということが、「無辺の生死海を尽く」すということです。
迷いというのは、迷っていたことに気づき、目覚めるということがあるからこそ迷いというのです。迷いしかなければ、迷っているとも思いません。《中略》
「無辺の生死海を尽くさん」というのは、迷いだから駄目だというのではありません。迷いが目を覚ます場所に変わるのでしょう。無辺という果てしのない迷いの海です。ですからそれに目を覚ますことも終わりがないのです。「尽くさん」というのは、その終わりのない歩みを表しています。
(法話レジュメより 四衢亮「生死海を尽くす」)

※次回の定例法要は、11月3日(木)文化の日に勤められる「報恩講」です。法話は専行寺の仏教入門講座の講師も務めていただいている海法龍先生(長願寺住職・真宗大谷派首都圏教化推進本部員)。工藤煉山(れんざん)さんによる尺八コンサートも予定されています。ぜひお参りください。

 

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