「仏教入門講座」が開催されました。

2016年12月10日

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12月8日(木)
「仏教入門講座」が開催されました。ご法話は海法龍 先生。「正信偈のこころ」をテーマにお話しいただいています。今回もインドの龍樹菩薩(ナーガールジュナ)の教えを手がかりにお話しいただきました。

『正信偈』のおことば
「憶念弥陀仏本願・自然即時入必定・唯能常称如来号・応報大悲弘誓恩」
(弥陀仏の本願を憶念すれば、自然に即の時、必定に入る。ただよく、常に如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべし、といえり。)
【意訳】・・・(龍樹菩薩は)だから、仏の願いを忘れず、心に思い念じるならば、その時、願いのはたらきで、おのずからすぐに必ずさとりを約束され、退かない身と定まる。ただよくつねに仏の名を称えて、大きな悲願の恩恵にこたえていくことが大切である。このようにいわれました。

【法話聞書】
・親鸞聖人は「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」と仰られました。縁によって、いかなることもしてしまう私たちであると。そしてどうなるかというと、人と人とが切り裂かれていくんです。その人間存在というものが悲しまれている。「大悲」の「悲しい」という字は「非」の「心」と書きます。「非」という字は、背中と背中同士で向き合っている姿、背きあっている、拒否しあってる姿を現しています。拒否している心が悲しいという文字になっているんですね。漢字に深い意味がこめられているのでしょう。

・本願の広い世界とは何か。私たちにかけられているその願いは、選り好みして、ここには願いをかけるけれども、ここにはかけないというような願いではない。それを「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」摂めとって捨てずの心と教えられます。専行寺さんの山号は「摂取山」ですね。こちらの住職も私もご縁のあった竹中智秀先生は、そのお心を「選ばず・嫌わず・見捨てず」と仰いました。それが如来の心です。「憶念」ですから、その如来の心を忘れないということ。私たちも憶念されているのです。その心に触れると、私たちはいかに「選び・嫌い・見捨てる」ような生き方をしているかということが知らされるのです。問いかけられるのです。

・お経の言葉は、南無阿弥陀仏の言葉は、私たちにとって本来を示す問いかけの言葉です。本来を示して、私たちの心がそこからいかに遠いところで生きているかと教えられるのです。本来に帰ることができるかというと、なかなか帰ることはできません。「選ばず・嫌わず・見捨てず」と言われて、そうかなと思っても、さぁ今日から「選ばず・嫌わず・見捨てず」でいきますと。本当に生活の中で、対人関係の中でできるかというとできませんね。だからこそ問いかけられ続けるのです。これをできるようにしていこうというのが「難行」(聖道門仏教)ですが、しかし「易行」(浄土門仏教)の私たち真宗門徒も同じものを持っているんですね。法話を聞いて「私はまだまだです。いつかは〈選ばず・嫌わず・見捨てず〉という世界をいただかなければなりませんね」と。そういう聞き方になるんですね。聞いてつかもうとするんです。「自分を向上させるために聞法します」と仰る方もおられますが、実は方向が反対ですね。「向上したい」というところに何が隠れているかというと野心ですよ。向上して良くなった顔をして評価されたい。そういうものが私たちの中に隠れているんです。だから、私たちは憶念さえできないんですよ、本当は。都合のいい時は思い起こすけれど、都合の悪いときは忘れているんですから。でも、そういう人間の姿に目を開いてほしいと南無阿弥陀仏というお言葉が願いをもって私たちに届けられているわけです。南無阿弥陀仏にふれるということは願いを聞くということなんですね。(文責・専行寺)

〈次回予定〉
日時  2016年2月1日(水)15時(終了後は新年懇親会も開催されます)
法話  「正信偈のこころ」海法龍 先生(長願寺住職/首都圏広報誌『サンガ』編集委員)
※これから仏教を聞いていきたいという方にもわかりやすい入門講座です。連続講座ですが、途中からでもお気軽にどうぞ。開会前には「ピラティス教室」(申込制)も開催されます。お気軽にご参加ください。

 

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