「報恩講」が勤められました。

2017年12月15日

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11月3日(金)文化の日

宗祖親鸞聖人の「報恩講」が勤められ、大勢の皆様がお参りくださいました。ご法話は竹部俊惠先生(妙蓮寺住職・本願寺横浜別院 前輪番)。富山県南砺市の井波からご出講くださいました。
「報恩の報、報いるとは、私が知らされたことを自分の生きざまとして行じていくこと」。このことを親鸞聖人のご生涯をたずねつつ、さまざまな角度からお話しくださいました。

〈法話聞書〉文責・専行寺
・「恩」ということが忘れ去られ、「報恩」という言葉を聞いてもピンと来ない時代になっているかもしれません。インド仏教にも「恩」を意味する原語があります。パーリ語で「カタンニュー」と発音される言葉です。「カタン」とは「私を私たらしめているものがある」そして「ニュー」とは「それを知らされる」ということです。「なされたことを知る」という意味で「知恩」と訳されます。私を私たらしめているものがあることを知らされるという意味なんです。
・私たちの常識的な考え方は、私がまずあって、そして私が生きていくうえで手助けになっていく都合のいいものを良しとし、邪魔なもの、都合の悪いものは悪しとしていく。お釈迦様が教えてくださっているのは、その私が私たらしめられているそもそものものがある、私を超えたものと言った方がいいのかもしれません。それが仏教の核心です。そういうことを「恩」という。そのことを何よりも身をもって教えてくださった方が親鸞聖人です。
・「報恩」とはその恩に報いていくことです。報道の報ですから「知らせる」という意味があります。知らせるためには自分がまず頷かなければならない。お互い知らせたり頷いたりして、その道を歩んでいく、行じていく。報いるとは行じていくこと。つまり自分の生きざまにしていくことです。浄土真宗の伝統では「念仏の信者」とは呼ばず「念仏の行者」と言いますね。「いい考え方ですね。信じます」というのは「報恩」ではなく「謝恩」なのでしょう。謝恩セールの謝恩講ではありません。
・自分が広い世界に頷かされ、頭が下がったならば、そのことをお知らせしていく。自分もその道を歩ませていただく。行じて自分の生き方にしていく。それが「報恩」のおこころなのです。

※次回の定例法要は2018年元日に勤められる修正会です。ぜひお参りください。

 

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