「報恩講」が勤められました。

2020年01月05日

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11月3日(日)文化の日

宗祖親鸞聖人の報恩講(758回忌)が勤められました。ご法話は富山県南砺市井波よりご出講いただいた竹部俊惠先生(妙蓮寺住職・本願寺横浜別院 前輪番)。「追善の仏事、報恩の仏事」のテーマでお話いただきました。帰敬式(法名授与式)も執行され、3名の方が新たに仏教徒としての出発点に立たれました。

法話聞書(抄出/文責 専行寺)
・迷っている亡き方をたすけるためにと追善の仏事が行われます。しかし「迷っている」と言っているその私たち自身が問われることがなければ仏事とはいえないのではないでしょうか。

・死を忌み嫌うがために、人間の行いも善と悪に分けて、善が足らなければ追善をするという仏事ではなく、私たちが毎日出会っていくさまざまな出来事から声を聞いていくあり方です。毎日の出来事を「いい悪い」というモノサシで切り刻んで生きているけれど、それらすべての出来事こそが仏さまの教えに出会う機縁としていただける世界を聞き届けていくのです。

・「時空を超えてつながっているいのちは目には見えません。それを支えているおかげさまも目には見えません。見えないものを感じる力を育まなければ、なぜいのちが大切なのかも感じられないと思うのです」(草場一壽)自分中心の私たちには、人と人との間を生きていることがわからないのです。私たちの人生は善悪を超えているんです。

・「難の多い人生はありがたい。人間がなぜ生まれたかといえば、難を自分の身に受けながらも成熟していって、最後、死に至るため。成熟って難がなければできないの」一年前に亡くなられた樹木希林さんの言葉です。「有難い」とは、「存在することが難しい」ということだと考えてきましたが、「人生には難がある」難があるから生きていけるんだという希林さんの味わいですね。

・『教行信証』行巻に「楽(この)んで世尊の教えを聴聞せん」というお言葉があります。「聴」は耳をそばだてて聴くこと、「聞」は音声が耳に届いたことです。親鸞聖人は「聴」の文字には「ユルサレテキク」と、「聞」の文字には「シンジテキク」と左訓をしておられます。つまり「縁あって聴くことのできる身になった」そして「如来の仰せを我がこととして間違いなく聞き開いた」ということです。聴によって聞に入る道をいただこう、それが親鸞聖人が聞き取られた仏法です。

・この娑婆ではお金を稼がなければならない仕事もあります。その中で「如来大悲の恩徳」「師主知識の恩徳」に報謝していく大事な仕事をいただくのです。生きていくことの意味をずっと尋ねていくこと、それはほんとうに死んでいけるかということでもあります。この娑婆に身を置きながら、浄土にふれる生活、仏さまの教えにふれる生活をしていく、それを往生というのです。

※次回の定例法要は2020年元日に勤められる「修正会」。引き続き1月13日(月)成人の日には「新春法会(落語会)」が開催されます。ぜひお参りください。

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