お知らせ

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お知らせ

「修正会」「新春法会」が勤められました。

2020年02月09日

1月1日(水)元日
「修正会(しゅしょうえ)」が勤められました。
新年を迎え、仏前にて心静かに自分自身を見つめ、1年の歩み出しを始める法会です。
式次第は、➀開扉 ➁静座 ➂三帰依 ➃勤行 ➄献杯の儀 ⑥法話(住職挨拶)。
終了後、書院にてお汁粉(ぜんざい)が振る舞われました。

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1月13日(月)成人の日
「2020年新春法会」が勤められました。
今年は落語会に先立ってリトルハープデュオによるハープ演奏も行われました。落語はお馴染みの林家正雀師匠とお弟子さん方が出演。本堂に笑顔があふれる華やかな催しとなり、終了後の懇親会では福引も行なわれました。

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専行寺では、本年もさまざまな行事や集いが開催されます。ご参拝を心よりお待ちしております。

「林家正雀師匠」来たる!

2020年01月05日

2020年お正月の行事は、元日恒例の「修正会」に続き、13日(成人の日)に「新春法会(新年初参り&落語会)」が開催されます。林家正雀師匠とお弟子さん方がお越しくださいます。リトルハープデュオによるハープの演奏もあります。新年の献杯と福引もどうぞお楽しみに!皆様ぜひお誘い合わせてお出かけください。

※詳細はこちらら→新春法会2020

「報恩講」が勤められました。

2020年01月05日

11月3日(日)文化の日

宗祖親鸞聖人の報恩講(758回忌)が勤められました。ご法話は富山県南砺市井波よりご出講いただいた竹部俊惠先生(妙蓮寺住職・本願寺横浜別院 前輪番)。「追善の仏事、報恩の仏事」のテーマでお話いただきました。帰敬式(法名授与式)も執行され、3名の方が新たに仏教徒としての出発点に立たれました。

法話聞書(抄出/文責 専行寺)
・迷っている亡き方をたすけるためにと追善の仏事が行われます。しかし「迷っている」と言っているその私たち自身が問われることがなければ仏事とはいえないのではないでしょうか。

・死を忌み嫌うがために、人間の行いも善と悪に分けて、善が足らなければ追善をするという仏事ではなく、私たちが毎日出会っていくさまざまな出来事から声を聞いていくあり方です。毎日の出来事を「いい悪い」というモノサシで切り刻んで生きているけれど、それらすべての出来事こそが仏さまの教えに出会う機縁としていただける世界を聞き届けていくのです。

・「時空を超えてつながっているいのちは目には見えません。それを支えているおかげさまも目には見えません。見えないものを感じる力を育まなければ、なぜいのちが大切なのかも感じられないと思うのです」(草場一壽)自分中心の私たちには、人と人との間を生きていることがわからないのです。私たちの人生は善悪を超えているんです。

・「難の多い人生はありがたい。人間がなぜ生まれたかといえば、難を自分の身に受けながらも成熟していって、最後、死に至るため。成熟って難がなければできないの」一年前に亡くなられた樹木希林さんの言葉です。「有難い」とは、「存在することが難しい」ということだと考えてきましたが、「人生には難がある」難があるから生きていけるんだという希林さんの味わいですね。

・『教行信証』行巻に「楽(この)んで世尊の教えを聴聞せん」というお言葉があります。「聴」は耳をそばだてて聴くこと、「聞」は音声が耳に届いたことです。親鸞聖人は「聴」の文字には「ユルサレテキク」と、「聞」の文字には「シンジテキク」と左訓をしておられます。つまり「縁あって聴くことのできる身になった」そして「如来の仰せを我がこととして間違いなく聞き開いた」ということです。聴によって聞に入る道をいただこう、それが親鸞聖人が聞き取られた仏法です。

・この娑婆ではお金を稼がなければならない仕事もあります。その中で「如来大悲の恩徳」「師主知識の恩徳」に報謝していく大事な仕事をいただくのです。生きていくことの意味をずっと尋ねていくこと、それはほんとうに死んでいけるかということでもあります。この娑婆に身を置きながら、浄土にふれる生活、仏さまの教えにふれる生活をしていく、それを往生というのです。

※次回の定例法要は2020年元日に勤められる「修正会」。引き続き1月13日(月)成人の日には「新春法会(落語会)」が開催されます。ぜひお参りください。

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「お盆法要」が勤められました。

2019年08月30日

 

7月7日(日)

お盆法要(盂蘭盆会/うらぼんえ)が勤められ、新盆を迎えられた皆様はじめ、大勢の方々がお参りくださいました。ご法話は百々海真先生(港区・了善寺住職 / 東本願寺教化教導)にご出講いただきました。

法話聞書(抄出/文責・専行寺)

・法話のテーマ「無数の阿弥陀まします」は、親鸞聖人のご和讃「無碍光仏のひかりには 無数の阿弥陀ましまして 化仏おのおのことごとく 真実信心をまもるなり」からのお言葉です。私が意訳したものも申し上げます。「念仏申すとは、これまでまったく見えなかった世界がはっきりと見えてくる時の到来である。私をとりまく他者・言葉・出来事は、実はみな阿弥陀仏の化身であったとの発見である。と同時に、どうか本願のまことに目覚めてくださいとの如来の祈りに出会うことである」。要するに「阿弥陀とは真実それ自身が人間を目覚めさせようとする活動(はたらき)」だと。実は仏法に出会うことによって育てられる感覚は、気付かされてみたら、私が読んでいる新聞の一句も、小説の一節も、お孫さんの何気ない一言も、日ごろの自分のモノの見方・考え方が果たしてこれでいいのかどうか。むしろこれを当たり前としていたことが当たり前でなかったと、自分のモノの見方・モノサシがひっくり返されること。そのはたらきが無数の阿弥陀。私の出会う一切の出来事が私を目覚ませようとするはたらきであった。こういうことを歌っている和讃であります。この「無数の阿弥陀まします」という言葉をテーマにしましたのは、少なくとも親鸞聖人においてはそれが利益(りやく)であると仰っていることを確かめたかったのです。

・皆さん「仏教とはどういう宗教か」と聞かれたらどう答えますか。私の友人がニューヨーク在勤時に「あなたの信仰は何か」と聞かれ「ブッデイスト(仏教徒)」と答えた。さらに「仏教とはどういう宗教か」と聞かれたといいます。「3年前におばあちゃんの葬式を寺でやってもらった」とか「毎年1度は墓参りしている」とか、そんな話をしても答えにはならないことはわかったと。例えば「感謝」とか「供養」という言葉が仏教を象徴するものとして出てくると思います。これらも伴うんでしょうが、実は仏教そのものは「目覚め」の宗教なんです。仏陀(ブッダ)とは「目覚めた人」という意味ですね。自分は本当のことが見えていなかった。無明(むみょう)という迷いに目覚めた方。仏陀釈尊・お釈迦さまはその第一号です。私たちが中心に据えている知識や感覚や価値観が本当に確かなものかどうか。実はそのモノサシが確かではなかったと目覚めさせることが仏教という宗教です。「仏教とはわからんことを覚えることではない。わかっていると思っていたことが、実は少しもわかっていなかったと気付くことである」。これは訓覇信雄先生の言葉です。

・仏教で語られる真実の「供養」とは、私たちからの慰霊鎮魂の儀式ではありません。こちらからという形をとりますし、亡き方にお心を寄せるわけですが、本当に亡き方が喜ぶとはどういうことなのでしょうか。遺された私たちが本当に頭を下げずにはおれないことに出会うこと、供養せずにはおれない、敬わずにはおれないことに出会う、その出会いが「讃嘆供養」という言葉で教えられます。「讃嘆」つまり「ほめたたえる」ということは、既にそうなっていることが本当に見えてきたということです。正信偈に「獲信見敬大慶喜」「見敬」とあります。敬うべきことが見えてくる。これが実は供養という言葉と重なる言葉なんですね。いつも新鮮で、私の闇を破ってくる出会い・他者・言葉・出来事。こういうことを「見敬」という言葉で親鸞聖人は仰られます。

・一般的に「供養」という時には「慰霊鎮魂」ということがイメージされますが、そもそも仏教では霊魂は説きません。霊魂があるともないとも言わない。つまり「霊魂不説」の立場が仏教です。亡き方を慰めたり鎮めなければいけない人として見ている私たちの死者観が本当に確かなものですか。実はそう見ている私たちの死者観そのものが翻させられることが「讃嘆供養」の世界なんです。例えば、ご葬儀で「どうぞ安らかにお眠りください」と仰った方が、旅行に出かける時には「見守っていてください」とも仰いますね。眠らせたいのか起きていてほしいのか、どちらなんでしょうか。亡き方を尊んで仰っていること、つまり「善」ですから、これが虚偽だということがなかなか見えません。もっと言えば、亡き方にお心を寄せるということがなくなってきている現代の日本では「法事を勤める意味はあるのか」というお話にさえなります。お釈迦さまは死者に向かってものを語っているわけではありません。「人間は生まれた限り死にゆく身である」ということは語ります。亡き方からそのことを教えられたという立場の逆転、死者観の翻りこそがすべてなんです。法事は亡き方にお経を聞かせて喜ばせる儀式ではなかった。この一点に私たちが仏教徒として目覚めることが願われているのです。

・亡き方が仏さまですともし言えるなら、それは私がその人の生涯から聞き取るべきことを聞き取った時です。それは良い事ばかりではありません。人生の厳しさを見せてくださる仏さまもおられますね。「あんなことは真似したくない」とか「借金を残していった」とか「散々おふくろを泣かせた」とか。しかし、そこに人間がまっすぐ生きられないということを教えてくださる方もいるんだという世界が広がれば、その時にその人は仏さまです。生きている者が亡くなった方をどう見るかということです。私は確かなものであって、相手は不確かなものだから導いてあげる、そういう所には親鸞聖人はお立ちになりませんでした。こちらから亡き方を供養するという形をとりますが、実は最も安らかなのは亡き方かもしれません。私たちが手を合わせる前から安らかであります。この世の娑婆の仕事を終えられたんですから。墓参りをしてもしなくても文句ひとつ言わないですよ。法事を勤めることで遺った者がお念仏の世界にふれる。頭を下げずにはおれないこと、敬わずにはおれないことに出会う、私たちの死者観・仏教観が変わるかどうか、そこが供養ということの中身なんです。

・中村忠二さんという方の詩をご紹介します。
「蝉さんよ、道で君をひろったがい。歌って歌って命つきてね。樹から落ちたんやなぁ。僕恥ずかしいよ」これだけの詩なんですが、葬儀とはこれ以外にないと思うんです。讃嘆供養という世界も、懴悔と讃嘆という宗教の骨格も全部ここに表現されています。一匹の蝉の死骸が「完全燃焼」ということを語っている。蝉は蝉の分限を生きた。蝉の業を果たして死んでいった。一切の人類がそうです。私たちもその最中です。善いとか悪いとか、好きとか嫌いとかいう後付けの世界を私たちは生きていますけれども、事実は動かない。厳粛です。なるべくしてなっています。お経によって災難が遠のくこともないし、お念仏は私の願った通りの生活が始まるための手助けもしません。そういう私の甘い考えを吹っ飛ばして、本来の世界に帰らせる声がお念仏であります。完全燃焼した蝉の生涯を讃嘆し、一方で「僕恥ずかしいよ」と懴悔しています。懴悔とは本当の自分が見えることであって反省ではありません。恥ずかしい自分しかいないという決着です。懴悔と讃嘆。ほめたたえるべき世界に出会うということは必ず懴悔をおこします。愚かさの自覚を生む。同時にその自覚をもたらした世界を仰ぐということがおこる。キリスト教も仏教もそうです。最も健康な宗教のあり方はこの懴悔と讃嘆です。妄信とか狂信とか陶酔ではなく、覚ます方向です。懴悔なき讃嘆は単なるお世辞。讃嘆なき懴悔は単なる自己批判ですね。愚かなものが愚かなままに立ち上がる世界、本当に愚かなものに真実の光が届いたという喜びです。蝉と人間との出会いとはいえ、これが葬儀の原風景だと思います。今日申し上げたかったことも、この詩におさまると言ってもいいんです。最初に「無数の阿弥陀まします」と申し上げました。蝉の生涯が中村さんの上にこういう感応道交の世界を開いたということは、つまり蝉が如来であった、私を促してくださる仏さまであったという目覚めですね。こういう世界が開かれることが人間のほんとうの利益だと教えられるのです。

・浄土真宗の寺院の本堂には七高僧と聖徳太子の掛軸が掛けられていますね。また正信偈は親鸞聖人がご自身の出会われた世界を私たちに呼びかけてくださっているお言葉です。インド・中国・日本の七人の先達(七高僧)の生涯を讃嘆しておられます。仏教というのは図書館にあるのではない。迷いに目覚めさせ、人間を本当の意味で護る。真実信心を護るというのは真実の歩みをもたらすということ。そういう方向を人間の上に開いてくるものだと。親鸞聖人にとってはその証しびと(証明者)が七高僧であり聖徳太子なのです。聖徳太子は皇族であり政治家。現代でいえば永田町のど真ん中で仏法を聞く生活をされたということです。私たちの日常生活そのものが仏道である。そのことを証した人として讃嘆しておられるのです。この盂蘭盆会を出発として、お互いにお念仏の教えに出会い直していくことこそ願われている一点だと申し上げて今日のご縁はここまでにさせていただきます。

※次回の定例法要は、9月22日(日)秋彼岸法要。講師は青柳英司先生(大谷大学真宗総合研究所東京分室 研究員)です。ぜひお参りください。

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「永代経法要」が勤められました。

2019年06月19日

5月12日(日)

永代経法要が勤められ、大勢の皆様がお参りくださいました。

これまで専行寺にご縁のあったすべての方のご法事であり、永代にわたってお経が読み継がれ、教えが伝えられていくことを願って勤められます。ご法話は「仏さまとあなたとわたし」白山勝久先生(世田谷・西蓮寺/仏教ブログ「ことば こころのはな」執筆者)。

「悩みがなくなることが救いではない。共に悩めることが救いです」(安田理深)

このお言葉と次のエッセイを手がかりにお話しくださいました。「悩みがすべてなくなるという宗教があれば、それは自己自身を見失い、まるで熱病にかかったようなものである。仏教は、悩んでいる自己の発見を促すものである。それは深い眠りから覚めることである。わたしたちはいつも自分中心に物事を見つめ、客観的に自己を見つめることは難しい。自分で自分の顔を見るには鏡がいる。鏡の前に自身の顔を照らし出すのである。その鏡こそ、真実の教えに出会うことである。それはまた、悩みそのものを引き受けていく教えである。安田先生は『救いとは共に悩むことのできる人と教えに出会うことである』と言われる。共感の世界である。それは現実から逃避せず、向かい合うことである」

※次回の定例法要は、7月7日(日)に勤められるお盆法要です。法話は百々海真先生(東本願寺教化教導 / 港区 了善寺)。ぜひお参りください。
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「修正会」「新春法会」が開催されました。

2019年01月20日

1月1日(火)元日
10時より「修正会(しゅしょうえ)」が勤められました。
新年を迎え、仏前にて心静かに自分自身を見つめ、1年の歩み出しを始める法会です。
式次第は、➀開扉 ➁静座 ➂三帰依 ➃勤行 ➄献杯の儀 ⑥法話(住職挨拶)。
終了後、書院にてお汁粉(ぜんざい)が振る舞われました。

 

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1月14日(月)成人の日

「2019年新春法会」が勤められました。
式次第は、➀勤行 ➁献杯の儀 ➂挨拶 ➃落語 ➄懇親会(福引)
落語会には林家正雀師匠とお弟子さん方が出演され、本堂に笑顔があふれる華やかな催しとなりました。終了後の懇親会では福引も行なわれました。

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専行寺では、本年もさまざまな行事や集いが開催されます。ご参拝を心よりお待ちしております。

林家正雀師匠来たる!

2019年01月08日

2019年お正月の行事は、元日恒例の「修正会」に続き、14日(成人の日)に「新春法会(新年初参り&落語会)」が開催されます。林家正雀師匠とお弟子さん方がお越しくださいます。新年の献杯と福引もどうぞお楽しみに!皆様ぜひお誘い合わせてお出かけください。

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※詳細はこちら→新春法会2019

「報恩講」が勤められました。

2018年11月29日

11月3日(土)文化の日

宗祖親鸞聖人の報恩講(757回忌)が勤められ、大勢の皆様がお参りくださいました。ご法話は昨年の報恩講に引き続き竹部俊惠先生(妙蓮寺住職・本願寺横浜別院 前輪番)。富山県南砺市の井波からご出講くださいました。また当寺にて「活き活き尺八教室」を開催されている工藤煉山さん(都山流尺八演奏家)の尺八演奏が奉納されました。

〈法話聞書〉文責・専行寺
・人間のいのちの営みというものは、日常の私たちの価値観(ものさし)を超えているものです。「いのちはいただいたものである」と仏教では説きます。私の意志でここに生まれてきたのならば「私の力でいのちを誕生せしめた」といえるかもしれません。考えてみれば、私は両親からいのちをもらってこの場にいる。その両親も4人の祖父母からいのちをもらっている。その祖父母にいのちをくれた曾祖父母が8人。私が誕生した時からいのちは誕生したのではなく、私の誕生日にいのちが私となって生まれてくださったのです。そのようにいのちを捉え直しをするのが仏教です。
・私たちにまで受け渡しされてきたこのいのちは、人類全体の歴史を持っている。地球全体、宇宙全体の歴史を持っているともいえるでしょう。そういう歴史を経て、この私にまで届いてくださったいのちとして捉え直しをしたら、私がいま「生きること」についても見方が変わりませんでしょうか。例えば、膝が痛くなれば、私たちはすぐ「困ったもんだ」となります。しかし考えてみたら、この膝は何十キロもの体重を何十年間も支えてきてくれた。こう捉え直すならば、むしろそのことにまったく気付きもしなかった私こそが「困ったもんだ」ですね。捉え直しをすると、自分の思うようにならないことは、むしろ私の姿を知らせてくれる大事なはたらきだと教えられるのです。
・自分の曾祖父母8人の名前を全員言える方はいらっしゃいますでしょうか。難しいですね。記憶力の問題ではありません。私たちは知識としては「いのちは繋がっている」と知っていても、私の感覚としてはまったく遡ることはできません。しかし、いのちがずっと悠久の歴史を経て私まで届いているのは事実です。三帰依文に「人身受け難し、今すでに受く」とありましたね。「人間としてこの世に生をいただくことは本当に難しい。しかし今すでに生まれてきている」そのことへの感動がありますか、と。これが私たちに対する仏教の最初のメッセージです。
・南無阿弥陀仏の教えは、手を合わせれば、思い通りに快適な生活をさせてあげますなんていうことは言いません。むしろ思い通りにならないようなこと、身の上に起こっていることにきちんと向き合うことが、私に本当のことを教えてくださる。そのことを「有ること難し」とか「阿弥陀さまからのご催促」という言葉で表現してきました。植物でいえば、目には見えない根っこの部分に気付いてほしいということです。咲いた花が大きいとか小さいとか、綺麗な色だとか、そういうことは生老病死の道理の前にすべて色褪せてしまいます。そうした移ろいの人生であるからこそ、常に確かな教えに出会っていく生活をしてほしいという呼びかけが南無阿弥陀仏です。
・悠久の歴史を経て私に届いたいのちですから、私が亡くなっていくということは、いのちの故郷に帰らせていただくことです。仏となって真実の世界に生まれていく。それを「往生」といいます。そのことを一番大切な事「後生の一大事」という言葉で私たち真宗門徒は教えられてきました。先送りできない「いのち」の問題、それを「今生」にこそ聞かせていただく。私に起こってくるすべての出来事は「仏さまからのご催促」であったと教えられながら、精一杯生かさせていただくのです。悠久の歴史を経たいのちを「阿弥陀仏」といいます。阿弥陀仏自身が「南無せよ」と仰ってくださっている。「教えに従って全身を委ねよ」「信頼せよ」と仏さまが仰ってくださっているのが南無阿弥陀仏です。現実生活のすべての出来事が「仏さまからのご催促」と引き受けるならば、今まですべて私の価値観(ものさし)で善悪・損得と測っていた生き方がガラッと変わってきます。すべてがご催促、私を促してくださるものであったと教えられる場所に立つことができる。そういう生活が開かれてくるのです。
・蓮如上人のご門弟・赤尾の道宗さんは『心得二十一箇条』の第一条に「後生の一大事、いのちのあらんかぎり、ゆだんあるまじき事」と示されました。意訳すると「今こうしてぬくぬくと生きている私たちのいのちは必ず終わる。たった一回の人生が、たった一つのいのちが終わったあと、私は、私のいのちはどうなるのか。そのことを今しっかりと聞かねばならん。今ここにこうしてぬくぬくと生きている私の大事な大事ないのちのことを」(『妙好人 赤尾の道宗さん』より)
・一般的に宗教というと、私たちから仏さまに願いをかけるものと考えます。本当は仏さまが私たちに「どうか気付いてください」と願っておられる。そういただけるならば、私たちの毎日毎日の平凡な生活が、実はそのまま仏様の教えに出遇っていける仏道を歩ませてもらう場だというように変わっていくんですね。一回きりで限りのあるこの娑婆でのいのちです。そのいのちを生きる今ここで教えに出遇ってこそ、生きていくことの意味も捉え直すことができ、亡くなっていくこともまた仏さまの真実の世界に生まれさせてもらうことといただけるのです。
・この私のための教えであったと頷けた時に、親鸞聖人のおこころに報いていこうと歩みを進めていくことが始まるのです。そのことを確かめていく集いが今日のこの報恩講なのです。

※次回の定例法要は2019年元日に勤められる「修正会」。引き続き1月14日(月)成人の日には「新春法会(落語会)」が開催されます。ぜひお参りください。

 
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「秋彼岸法要」が勤められました。

2018年10月09日

9月23日(秋分の日)

秋の彼岸法要が勤められ、大勢の皆様にお参りいただきました。仏前で手を合わせてお念仏申すご縁をいただくということは、私たちを導いてくださる諸仏として亡き人と出会う、新しい関係の始まりでありましょう。法話は「彼岸を迎えて」と題して、専行寺住職(平松正信)が勤めました。

〈法話抄録〉文責は専行寺にあります。

・「彼岸」とはサンスクリット語「パーラミター」(波羅蜜多)の訳語「到彼岸」を略したものです。迷いの此岸から悟りの彼岸に至ること。『観無量寿経』の日想観(西に沈む太陽を通して阿弥陀仏の西方浄土を観ずること)に由来し、太陽が真西に沈む春分と秋分の日を中日として前後3日、計7日間に修される法会が彼岸会です。悟りの世界に向かう仏道修行の行事。仏道修行というと大袈裟に感じますが、彼岸(浄土)を憶念することを通して、私たちの迷いの世界。迷いの姿を教えられる法会です。

・お経とはお釈迦様のご説法の聞書です。正信偈は厳密にいえばお経ではありません。いわば親鸞聖人が作詞された念仏讃歌、仏教讃歌です。浄土真宗のさまざまな行事で読み継がれてきましたが、特に朝晩のお勤めでも読誦されてきました。朝のお勤めはお寺だけのものではありません。私たち真宗門徒は毎朝お内仏(仏壇)の扉を開いて教えの言葉をいただき、生活の中で自分の姿を照らしてくださる仏さまの眼差しを大切に歩んでこられたのです。

・「経」の原語はサンスクリット語の「スートラ」。音写されたのが「修多羅」という言葉です。仏教では音写された言葉がたくさんあります。「南無阿弥陀仏」も「ナムアミターバ」「ナムアミターユス」という言葉の音写。直訳すると「限りなき光と命の仏に帰命(信順)します」という意味の言葉です。現代でも音写の言葉が生まれます。「勿体ない」や「生きがい」という日本語も音写されてローマ字でいろいろな国で使われていますね。音写をして原語の意味を損なわないように大切に伝えていくわけです。

・「スートラ」という原語の意味は「縦糸」。糸によって貫き保持することです。「経といふは経(けい)なり。経(けい)よく緯を持ちて疋丈を成ずることを得て、その丈用あり」中国の唐の時代の善導大師のお言葉です。「経」というのは縦糸。縦糸はよく横糸を貫きたもって布を織りあげていく。そうして織りあげられた布がはじめて用をなしていくものである、と。私たちの人生を布に譬えられています。横糸とは私たちが毎日出会っていく出来事といえましょう。横糸だけでは決して布は織りあがりません。毎日の出来事に一喜一憂するだけ、その場しのぎで人生を終えていくことにもなりかねません。縦糸は表には現れませんが、それがしっかりと張られずに横糸をどれだけ渡しても、その布は用をなさない、完成しないということです。

・私たち人間は業縁存在です。縁によって、どこへどう転んでしまうかわかりません。だからこそ、この私の生涯を貫く縦糸・よりどころとしての「経」をいただいていくことを教えられるのです。毎日の生活の中ですべて自己関心に終始しているような私たちを立ち止まらせ、この私の布(人生)を完成していく大切な課題として横糸をたもち、促しはたらきかけてくださる仏さまの眼を「経」からいただいていくのです。

・インドでは生活の中で左右の手を使い分けているそうです。右手は神聖(清浄)な手とされ、人と握手したり食事する時に使います。不浄な手とされる左手はトイレなどでお世話になります。その左右の手を一つに合わせるのが合掌なのです。インドの人たちの挨拶では、必ず合掌して「ナマステー(あなたを敬います)」という言葉が交わされます。初対面の人同士でも「あなたとの出会いを大切にしていきます」という心で交わされるのでしょう。考えてみれば、私たちはいつも自分にとって「良いか悪いか」「好きか嫌いか」「損か得か」と物事を分け隔てして見ています。合掌で両手を合わせるということは「私はあなたを、良い悪い、好き嫌いなどと分け隔てして見ていませんよ」と表現している姿のようです。本当に相手を敬う心は、物事を分け隔てする心からは生まれないことを教えらているのではないでしょうか。

・物事をありのままに見ることなく、自分にとって都合のいいものか悪いものか?と分け隔てし評価していく私たちのものの見方、比較していく心を仏教では「分別(ふんべつ)」と教えられます。人間皆モノサシが違いますが、同じ一人の人間のモノサシでも、その時の都合によって目盛がコロコロと変わるような不確かなものです。

・「役に立つか立たないか」「生産性があるかないか」「効率が良いか悪いか」こうした分別のモノサシが現代では特に幅を利かせているように感じます。8月に国連で、AI(人工知能)を搭載した「殺人ロボット兵器」を禁止するか否かが協議されました。相手を殺すか殺さないかの決断をロボット(機械)に任せるのは人道に反するとして禁止を呼びかける国々に対し、日本は「正しく使えばより正確に攻撃し巻き添えを減らすことができる」という趣旨で慎重派に回ったそうです。つまり「より効率的に戦争ができるなら」といって殺人ロボットを擁護したわけです。憲法で戦争と武力行使を放棄しているにもかかわらず、このような発言がされたと聞いて驚きました。無人機やロボットに身内を殺された人々は、その復讐の矛先を手の届く民間人にテロという形で向ける可能性が高く、それもまた巻き添えなのではないでしょうか。こんなところにも当たり前のように「効率的であれば良い」という価値観があるわけです。

・最近ある女性議員が「LGBTの方々ために税金を使うことに賛同が得られるのか。彼ら彼女らは子どもを作らないから生産性がない」という趣旨の意見を雑誌に寄稿して問題になりました。そもそも「子供を授かるから生産性がある」という理屈もおかしいのですが、生産性があろうとなかろうと誰でも安心して生きられる社会を創っていくのが政治家の仕事ではないでしょうか。これも「生産性があることが良い」という価値観です。ここでこの女性議員を批判しようというわけではありません。「役に立つか立たないか」「生産性があるかないか」と人を切り刻んでいくようなモノサシは私たちの中にもあるのではないかということを申し上げたいのです。

・例えば「健康第一」ということを仰る方は多いですね。できれば私もずっと健康でありたいと思います。しかし、年を取ったり病気をして、若い時のようには動けない。だんだん役に立たなくなることは誰にでも巡ってくることです。もし人から「あの人ももうダメだね」なんて言われたら蹴っ飛ばしてやればいいのですが、自分自身がその「健康第一」という考え方に凝り固まっていたら、若い時のようには動けなくなった自分を自分自身が認められないということになっていきます。「健康第一という考え方は実は不健康な考え方です」と、ある先生が仰っておられました。自分の価値観が自分のいのちそのものを傷つけていくというおかしなことになっていくわけです。一人ひとり誰と代わることのできないいのちを、いろんなものに支えられながら生きています。そのいのちに上とか下とかいうことがあるのかというのが親鸞聖人の眼です。元気で働けるときだけ私には価値があり、働けなくなったら価値がなくなったのではないかと思ってしまう。これは偽なるもの、よりどころにしてはならないものです。

・親鸞聖人は「真と仮と偽」ということを教えてくださっています。「仮」とは一時的な仮もの。例えば、定年を迎えた方、子育てを終えた方が、そのあとに何をしたらいいのかわからなくなって虚しさに落ちてしまう「燃え尽き症候群」というものがあります。会社勤めも子育ても大事なものであり、日常生活に目標や活力を与えてくれるものですが、終わってしまえば消えていくものです。「一生を貫くようなよりどころとは何だろうか」という問いかけです。もう一つの「偽」とは偽もの。よりどころにしてはならないもの。これをよりどころとすると必ず縛られ、逆に自分が苦しむことになります。人間に対してさえも「役に立つか立たないか」と。ひどい時には「生きる価値があるかないか」とそこまでいってしまう。この偽のよりどころはそういうものを持っているわけです。周囲の人や自分さえもそのモノサシで計って切り刻んでいくことが起きる。お互いに計ったり計られたりということになります。

・「役に立つか立たないか」「生産性があるかないか」「効率が良いか悪いか」こうした分別のモノサシが現代では相当に幅を利かせ、世の中全部がそのなかで動いていますから、そういう生き方を痛ましいとも思いません。人と比べあったり優劣を競ったりしていることが愚かだとも思いません。それが「闇」です。本当に闇の中でいて光の存在を知らない人は、自分が闇にいることに気づきません。光が差すということは、今まで闇の中にいたということに気づくこと。具体的な光・太陽とかではなく、自分の今までのものの見方、間違いないと思っていることを闇に譬え、その生き方が痛ましいことになっていた、自分を苦しめることになっていたと気づくことが光に遇ったことだと譬えられるのです。仏や浄土を光と呼ぶのはこのことです。「今日から真のよりどころを手に入れました」という話ではありません。「これは一時的な仮のものだった」「よりどころにしてはならない偽物だった」ということがはっきりする。これが真よりどころとの出遇いの中身です。今までのあり方を問い返すような形で、真宗(真のよりどころ)というものが私たちのところにやってくるのです。

・「蟪蛄春秋を識らず、伊虫あに朱陽の節を知らんや」曇鸞大師のお言葉です。
夏生まれて夏死んでいく蝉は春と秋をしらない。しかし夏という季節を本当に知っているといえるのだろうか、という問いかけです。四季それぞれを知っている人こそが、今は春、今は夏、今は秋、今は冬とわかるわけです。夏生まれて夏死んでいく蝉は、春や秋冬のことも知らないかもしれないが、今が夏だということも分からずに死んでいくのではないか。これは譬えですから蝉の話ではなく我々人間の話です。人間が自我の意識で自分の価値観だけで物を見て、それがすべてだと思って生きているならば、それは本当には物が見えていない。本当に生きたことにもならないのではないか、と。

・細川巌先生が私たちの姿を譬えてくださっています。
「私たちは生まれたままでは卵の殻の中にいるような存在です。卵の殻の中にいて、幸せになりたい、と思う。どうすれば幸せになれるだろうか。できるだけ得になることを心掛けていこう。損になることには近寄らないようにしよう。そのようなことを考えながら私たちは幸せを目指して生きています。しかし、善悪、損得、勝ち負けをしっかり考えながらも、それらに振り回されて、結果として卵は腐って死を迎えてしまいます。卵は腐って死ぬために生まれてきたわけではありません。卵は親鳥に温めてもらい熱を受ける。その熱が私たちにとって仏の教えなのです。この教えを受けていくうちに、殻の中で成長していくのです。そして時機が熟してひよこになる。ひよこになることを禅宗では悟りといい、浄土教では信心をいただくといいます。この卵の殻というのは「私が、私が」という自己中心の思いです。私にとって善か悪か、私にとって得か損か、私にとって勝ちか負けかと、いつも「私が、私が」という殻があるわけです。殻の外に出て初めてひよこは自分が殻の中にいたことがわかります。そして大きな仏の世界があることを知るのです。そして大きな世界からのお育てをいただきながら、ひよこは親鳥になる。それを仏といいます」

・自我という殻の中で私たちは、好き嫌い・損得・勝ち負け・役に立つ立たない、ということに振り回されて生きています。仏の教えという温もりをいただいて殻の中で成長し、ひよことなって自我の殻の中で生きていたことを知る。殻が割れても自我がなくなるわけではありません。頭の上に殻が乗っかっているようなものです。この自我に覆われている自分に目が覚めて、問題になって、初めて人間としての本当の歩みが始まる。それを仏道と教えられるのです。

※次回の定例法要は、11月3日(文化の日)に勤められる報恩講。ご法話は竹部俊惠先生(富山県南砺市 妙蓮寺住職・本願寺横浜別院前輪番)です。ぜひお参りください。

 
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「お盆法要」が勤められました。

2018年08月11日

7月8日(日)
お盆法要(盂蘭盆会/うらぼんえ)が勤められ、新盆を迎えられた皆様をはじめ、大勢の方がお参りくださいました。ご法話は藤本愛吉先生(三重県・正寶寺住職 / 大谷専修学院 元指導主事)にご出講いただきました。

梵語(古代インド語)の「ウランバーナ」を音写したものが「盂蘭盆」で、それをお盆と称しています。「ウランバーナ」の原意は「逆さ吊り(倒懸/とうけん)の苦しみ」で、それは「真実に背いている私たちの姿」であると教えられます。

お盆はそもそも『仏説盂蘭盆経』に説かれている釈尊の弟子・目連尊者(もくれんそんじゃ)の物語に由来します。目連尊者の母は餓鬼の世界に落ち苦しんでいました。(盂蘭盆はその姿〈倒懸〉を意味しています)。目連は母を助けたいと食物を運びますが、すべてが火や灰に変わってしまいます。どうすることもできない目連は師・釈尊を訪ねました。すると釈尊から安居(あんご)の最終日(7月15日)、百味の飲食を盆に盛り、仏や菩薩や僧などのすべての聖衆に供えるよう教えられます。目連がそれを実践すると、仏法僧の三宝の功徳により、母は餓鬼の世界から救われ、目連自身もまた愛憎の執われから解放されたといいます。目連が最後に釈尊に教えを求めたように、真実の教えにふれることがなければ、私たち一人ひとりの真の安心が成り立たないことを教えています。

私たち真宗門徒にとってのお盆法要(盂蘭盆会)は単なる先祖供養の行事ではありません。「歓喜会(かんぎえ)」とも称されるように、私にまで届けられているいのちが、いかに稀有なものであり、尊いものであるかを教えられる仏事です。そのいのちをたずね、仏法を聞き続け、私自身がお念仏を喜べる身となることを、亡き方々から願われているのです。お盆は私のための仏事だと気付かされることです。(参照 真宗大谷派東京4組発行『真宗門徒の葬儀』)

次回の定例法要は、9月23日(秋分の日)秋彼岸法要です。ぜひお参りください。

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