専行寺の歴史
専行寺は、開基・成覚坊釋了察法師によって、1620年(元和六)武蔵国豊島郡江戸番町三丁目谷六丁目(現在の東京都千代田区二番町付近)に創建され、その後寛永年間に、攝取山・専行寺と号するようになった。
1717年(亨保二)に同地で類焼に遭い、翌年新宿牛込原町の現今の地に移転している。
現在の本堂は1977年(昭和五十二)に再建されたものである。開創以来400年にわたり、お念仏の教えを伝える道場として興隆し、多くのご門徒と仏縁を結んでいる。
250年の風雪に耐えた旧本堂 1940年(昭和15)頃撮影
現本堂外観
◆◆◆
「一番困つたのは、夏の蚊帳であつた。布団屋から借りると、当時八十銭であつた。是ればかりはどうにも仕方がないので、勉強も、眠ることも出来ない。隣室の早稲田通いの友人は、僕の部屋に寝に来いと云うて呉れるけれども、何うも持つて生れた痩我慢と云うものは仕方がない、その厚意をも謝絶して、とうとう一名案を考え出したのである。
それは、部屋の障子を二枚外して、屋根形にそれを寄せ掛け、中程の処をヘコ帯で〆めて、前後の口へ浴衣を掛けると、完全な小屋掛けになって、其の中に裸体で寝るのである。一つも息苦しくもなく、涼しいこと夥しい。下宿屋の女中君が之を見て感心した、画を描く方の考えは実に巧まいものですねと褒められた。同宿の画友白峰、緑雲二子も腹を抱えて大笑い、予の名案に驚いて、今でも塾の一つ話にして居る」
<中略>
「此の貧乏生活が約二年続いた。幽谷先生も素は大工出身で、大抵の貧乏は経験済みであつた様であるが、私の此の有様を聞かれて、大いに同情せられたのであろう、月謝も最初の二、三ヶ月収めた丈けで免除せられ、種々と氣を付けてくれられた。
喜久井町の近所に、原町の專行寺と云う真宗のお寺があり、平松香然(※注)と云う住職 が居られた。フトした事から私の事を聞かれて、態々尋ねて来られ、談窮乏の生活に及んで、大いに同情を寄せられ、寺の一室を無料で提供せられた上、食費は実費と云うことで、殆ど家族的に待遇され、約一年位その厚意によつて、私は勉強に専念することが出来たのであつた。香然師没後は是信師が継がれ、今は又其の息が当主で、私は遂に三代目まで懇意にして居る。今でも時々尋ねると、当時の襖や衝立なぞに私のまずい画が残って居る。何時か画き直したいと思つているが、住職は此の儘の方が、私との因縁を知るが為には却て宜しいと云うて居られる」
『松林桂月遺稿・櫻雲洞随録』(松林清風編・二玄社・1997)より抄出
◆◆◆
※注 平松香然は専行寺第十一世住職。現住職・平松正信の曾祖父にあたる。