「報恩講」が勤められました。

2016年11月05日

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11月3日(木)文化の日

宗祖親鸞聖人の「報恩講」が勤められ、大勢の皆様がお参りくださいました。ご法話は専行寺の仏教入門講座にもご出講いただいている海法龍先生(真宗大谷派首都圏教化推進本部本部員・長願寺住職)。「聞法の生活―親鸞聖人の教え―」をテーマにお話しいただきました。
第二部は工藤煉山さん(都山流尺八演奏家・コンテンポラリーユニット「SARUME」主宰)による尺八演奏。歌声のように多彩で奥深い音色が本堂に響きわたりました。

〈法話聞書〉
「報恩感謝」という言葉は大事な言葉ですが、先ほども「都合感謝」になっているのではないかというお話がありました。親鸞聖人の仰られる「感謝」は、文字通り「謝りを感ずる」ということです。教えにふれる中で「自分の生き方がこれで本当にいいのかな?」ということを生活の中で問いかけられるのです。謝りを感じるような生活が開かれてくるのです。「聞法生活」とは私の生活を法に聞くのです。「聞光力」ということを教えられます。言葉のはたらきを光に喩えているのです。光に聞く、そこに力が生まれるんです。仏教の言葉を前に呼びかけられ願われているのです。謝りを感じるという世界を自らのうちに開いてほしいという願いです。

先日ノーベル医学生理学賞を受賞した大隅良典先生がじっくり基礎研究をする環境がなくなりつつあるという危機感を述べておられました。建物も基礎がしっかりしていないと「砂上の楼閣」です。私たちの人生も一緒ですね。私たちの基礎、足はどこに立っているかという問いが大切なのです。

蓮如上人の「白骨の御文」に「おおよそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり」とあります。この人生は決して幻ではないのに、幻のようにしてしまう私たちがいます。「露と落ち、露と消えにしわが身かな。なにわのことは夢のまた夢」秀吉の辞世の句ですが、底辺からはい上がって権勢を誇った秀吉が、死んでも死にきれないと言っているんですね。「自分は本当に生きてきたとはいえないのではないか」人生の最後にそういう問いを持ったのでしょう。そこに人間の共通する姿がある。「あるがまま」ということを見失って生きているのです。聞法によって、誰にでも共通する基礎・足元を教えられる。どこに立って生きているのか、と。

「如」とは「あるがまま」。いのちは皆尊いということをあらわす。それが私たちのところに来るから「如来」といいます。私たちが背いているから「如来大悲」。「ほんとう」ということにふれてほしいという呼びかけです。一人ひとりの存在は尊い。しかしそれに背く人間がある。そのことを深く傷み悲しみ、自分自身の姿に目覚めてほしいという願いが生まれ、それが南無阿弥陀仏の教えとなって私たちのところに届いているのです。

※次回の定例法要は、2017年元日に勤められる修正会です。ぜひお参りください。

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