「春彼岸法要」が勤められました。

2017年03月28日

トップ > お知らせ > 「春彼岸法要」が勤められました。

3月19日(日)

春の彼岸法要が勤められ、大勢の皆様にお参りいただきました。仏前で手を合わせてお念仏申すご縁をいただくということは、私たちを導いてくださる諸仏として亡き人と出会う、新しい関係の始まりでありましょう。ご法話は京都から松井憲一先生(京都・道光舎主宰・道専寺前住職)にご出講いただきました。

〈法話聞書〉(文責・専行寺)
1月に前坊守さんがお亡くなりになり、本堂にご安置されているご遺骨を前に、今日の彼岸法要はいろいろな思いをもってお参りいただいた方も多かろうかと思います。お別れをご縁にして、手を合わせ南無阿弥陀仏と念仏申すことは、生きておられた時の人間同士の関係とは少し違う関係をいただくことができるのではないでしょうか。亡くなられてみて、初めて私たちは涙しながら「有難う」とも言えるし「ごめんなさい」とも言える。そういうご縁が結ばれるということはとても大事なことであります。「どこかから見ておってくださるな」という感情と感覚で、亡き人とまた対話ができていくということは新しい出会いの始まりだということができます。

司馬遼太郎さんが『街道をゆく』の中で、近江商人がよく使われる「させていただく」という言葉について書いておられました。この頃は「してあげる」が多いのと違いますか。「子供を育ててあげる」のではなくて、「子供を育てさせていただく」のでしょう。若い頃は勝手し放題していた人も、結婚してお父さん・お母さんになると、学校のお役を授かったり、地域の運動に参加したりと、見事にお父さん・お母さんらしくなるものです。そういうふうになったのは子供のおかげでしょ。子供の手前、あまり自分勝手なことはしておれんなといって、それなりに親になっていくものです。

名を呼ばれるということはそういうことなんです。私たちが南無阿弥陀仏という言葉を申すということは、南無阿弥陀仏に願われているような私になっていきたいということで、南無阿弥陀仏という言葉が届けられているのですね、私たちに。「お父さん」「お母さん」でも「おじいさん」「おばあさん」でもそうです。「くそばばあ」なんて言われたら、「今年のお年玉はなし」となりますが、「おばあちゃん」と言われたら、少しは年金を貯めておかなきゃというふうに変わっていくでしょ。名は私を育ててくださるのです。「社長さん」と言われたら社長らしくなっていく。子供を育てさせていただいて、私たちは親にならせていただくのですね。司馬遼太郎さんもこれは他力の思想をあらわしていると仰っています。「させていただく」そのもっと深いところに、「如来様のおかげで」「摂め取って捨てない摂取のはたらきのおかげで」ということがあるわけです。
※次回の定例法要は、5月21日(日)に勤められる永代経法要。ご法話は白山勝久先生(世田谷・西蓮寺)です。ぜひお参りください。

2017春彼岸3
2017春彼岸1
2017春彼岸法要52017春彼岸2
2017春彼岸4