「永代経法要」が勤められました。

2017年06月23日

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5月21日(日)

永代経法要が勤められ、大勢の皆様がお参りくださいました。永代にわたってお経が読み継がれていくことを願って年に1度勤められている法要です。ご法話は白山勝久先生(世田谷・西蓮寺)。教えにふれていく私たちの姿勢を繰り返しお話してくださいました。併せて専行寺維持会総会も開催されました。

〈法話聞書〉(文責・専行寺)
南無阿弥陀仏とは言葉の仏さまです。
「阿弥陀」という言葉の原語は「アミターユス」です。意味は「無量寿」。「量ることができないいち」「量り知れないいのち」です。いのちの縦のつながりです。もうひとつの原語は「アミターバ」。意味は「無量光」。「量り知れない光」です。光は一瞬でその場に広がっていくものですよね。同じ時代に生きる者同士(いのち)が手を取り合うことを意味しているのではないかなと、私はいただいています。「無量光」はいのちの横のつながりです。無量寿は縦糸、無量光は横糸を表していて、その縦糸と横糸の重なる一点一点が私たち一人ひとりのいのちなのではないかなと思います。そうしたつながりを教えられると、人との関係を大切にとか、かけがえないいのち同士だから大事に生きていきましょうとなりますが、なかなかそうはいきません。しかし、確かにつながりを生きているのが私たちなのです。
「南無」という言葉の原語は「敬い」をあらわす「ナモ」「ナマス」です。インドやネパール、スリランカなどの挨拶は「ナマステ」と言います。日本語の「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」にあたる言葉ですが、「あなたに出会って良かった」とか「あなたのすべてを受け入れます」という意味もあるんだそうです。縦糸と横糸のまれなご縁をいただいて関係を結べた人間同士なんですから、本当はなかよくできればいいんですが、そうはいかない。かと言って捨てきれるものでもありません。そういうすべてのことをひっくるめていただくことが私の人生・私の生涯・私のいのちなんだなということを南無阿弥陀仏は意味しているんだと思います。

最近NHKの『SWITCHインタビュー』に出演され、『同朋新聞』2・3月号にも対談記事が掲載されていた盲ろう者の福島智さんが、昨年7月に起きた相模原市の障害者施設殺傷事件について発言しておられました。「重度障害者は家族にも迷惑をかけるし税金も使うからいない方がいいんだ」という容疑者の考え方は、彼だけの問題ではなくて、そういうことを思わせるような社会になってしまっているのではないかと福島さんは話しておられました。私たちは、やはり健康が一番で病気になったらダメだと思う。仕事でもバリバリできる人間が良くて要領の悪い人間はダメだと思う。そういうモノサシで人間を見る眼がいつの間にかできてしまっているんですね。そういうモノの見方をしてしまう社会が容疑者のような人間を生む。そういう心の根っこは誰しも持っているものです。

生活の中での出来事や社会の問題に対して当事者として生きることの大切さを思います。例えば、原発を良しとして当たり前に生きて来た当事者としての責任を抜きにして「原発はけしからん」「政府はなっていない」ということにしてしまいがちです。自分を抜きにして、自分を正義の側に置いてモノを見てしまいます。それは、自分をまっすぐなモノサシとして周りを歪んだものとして見ているわけです。しかし、はたして自分のモノサシは歪んではいなかったのか。

今日こちらの掲示板に「人として生まれた悲しみを知らないものは、人として生まれた喜びを知らない」とありました。人として生きるということは「自分が可愛い」というところでしか生きられない悲しみを背負っています。その中でこうした教えの場が尊ばれてきたということは、教えを聞いて自分の姿を照らされること、そして共にそのことを確かめていく仲間があることが人間の喜びなんだと思います。

「永代経法要」は文字通り永代にわたってお経が読みつがれることを願って勤められる法要ですが、お経の一字一句を勉強して伝えていく努力をしていくことではありません。自分を抜きにせずに教えにふれていく、教えられていたのはまさに私のことだったんだなという「頷き」をいただくこと、その姿が必ずあとの方に伝わっていきます。その姿を伝えていくことが永代経のこころなのです。

※次回の定例法要は、7月9日(日)に勤められるお盆法要。ご法話は藤本愛吉先生(三重・正寶寺住職/京都大谷専修学院元指導主事)です。ぜひお参りください。

 

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