「報恩講」が勤められました。

2018年11月29日

トップ > お知らせ > 「報恩講」が勤められました。

11月3日(土)文化の日

宗祖親鸞聖人の報恩講(757回忌)が勤められ、大勢の皆様がお参りくださいました。ご法話は昨年の報恩講に引き続き竹部俊惠先生(妙蓮寺住職・本願寺横浜別院 前輪番)。富山県南砺市の井波からご出講くださいました。また当寺にて「活き活き尺八教室」を開催されている工藤煉山さん(都山流尺八演奏家)の尺八演奏が奉納されました。

〈法話聞書〉文責・専行寺
・人間のいのちの営みというものは、日常の私たちの価値観(ものさし)を超えているものです。「いのちはいただいたものである」と仏教では説きます。私の意志でここに生まれてきたのならば「私の力でいのちを誕生せしめた」といえるかもしれません。考えてみれば、私は両親からいのちをもらってこの場にいる。その両親も4人の祖父母からいのちをもらっている。その祖父母にいのちをくれた曾祖父母が8人。私が誕生した時からいのちは誕生したのではなく、私の誕生日にいのちが私となって生まれてくださったのです。そのようにいのちを捉え直しをするのが仏教です。
・私たちにまで受け渡しされてきたこのいのちは、人類全体の歴史を持っている。地球全体、宇宙全体の歴史を持っているともいえるでしょう。そういう歴史を経て、この私にまで届いてくださったいのちとして捉え直しをしたら、私がいま「生きること」についても見方が変わりませんでしょうか。例えば、膝が痛くなれば、私たちはすぐ「困ったもんだ」となります。しかし考えてみたら、この膝は何十キロもの体重を何十年間も支えてきてくれた。こう捉え直すならば、むしろそのことにまったく気付きもしなかった私こそが「困ったもんだ」ですね。捉え直しをすると、自分の思うようにならないことは、むしろ私の姿を知らせてくれる大事なはたらきだと教えられるのです。
・自分の曾祖父母8人の名前を全員言える方はいらっしゃいますでしょうか。難しいですね。記憶力の問題ではありません。私たちは知識としては「いのちは繋がっている」と知っていても、私の感覚としてはまったく遡ることはできません。しかし、いのちがずっと悠久の歴史を経て私まで届いているのは事実です。三帰依文に「人身受け難し、今すでに受く」とありましたね。「人間としてこの世に生をいただくことは本当に難しい。しかし今すでに生まれてきている」そのことへの感動がありますか、と。これが私たちに対する仏教の最初のメッセージです。
・南無阿弥陀仏の教えは、手を合わせれば、思い通りに快適な生活をさせてあげますなんていうことは言いません。むしろ思い通りにならないようなこと、身の上に起こっていることにきちんと向き合うことが、私に本当のことを教えてくださる。そのことを「有ること難し」とか「阿弥陀さまからのご催促」という言葉で表現してきました。植物でいえば、目には見えない根っこの部分に気付いてほしいということです。咲いた花が大きいとか小さいとか、綺麗な色だとか、そういうことは生老病死の道理の前にすべて色褪せてしまいます。そうした移ろいの人生であるからこそ、常に確かな教えに出会っていく生活をしてほしいという呼びかけが南無阿弥陀仏です。
・悠久の歴史を経て私に届いたいのちですから、私が亡くなっていくということは、いのちの故郷に帰らせていただくことです。仏となって真実の世界に生まれていく。それを「往生」といいます。そのことを一番大切な事「後生の一大事」という言葉で私たち真宗門徒は教えられてきました。先送りできない「いのち」の問題、それを「今生」にこそ聞かせていただく。私に起こってくるすべての出来事は「仏さまからのご催促」であったと教えられながら、精一杯生かさせていただくのです。悠久の歴史を経たいのちを「阿弥陀仏」といいます。阿弥陀仏自身が「南無せよ」と仰ってくださっている。「教えに従って全身を委ねよ」「信頼せよ」と仏さまが仰ってくださっているのが南無阿弥陀仏です。現実生活のすべての出来事が「仏さまからのご催促」と引き受けるならば、今まですべて私の価値観(ものさし)で善悪・損得と測っていた生き方がガラッと変わってきます。すべてがご催促、私を促してくださるものであったと教えられる場所に立つことができる。そういう生活が開かれてくるのです。
・蓮如上人のご門弟・赤尾の道宗さんは『心得二十一箇条』の第一条に「後生の一大事、いのちのあらんかぎり、ゆだんあるまじき事」と示されました。意訳すると「今こうしてぬくぬくと生きている私たちのいのちは必ず終わる。たった一回の人生が、たった一つのいのちが終わったあと、私は、私のいのちはどうなるのか。そのことを今しっかりと聞かねばならん。今ここにこうしてぬくぬくと生きている私の大事な大事ないのちのことを」(『妙好人 赤尾の道宗さん』より)
・一般的に宗教というと、私たちから仏さまに願いをかけるものと考えます。本当は仏さまが私たちに「どうか気付いてください」と願っておられる。そういただけるならば、私たちの毎日毎日の平凡な生活が、実はそのまま仏様の教えに出遇っていける仏道を歩ませてもらう場だというように変わっていくんですね。一回きりで限りのあるこの娑婆でのいのちです。そのいのちを生きる今ここで教えに出遇ってこそ、生きていくことの意味も捉え直すことができ、亡くなっていくこともまた仏さまの真実の世界に生まれさせてもらうことといただけるのです。
・この私のための教えであったと頷けた時に、親鸞聖人のおこころに報いていこうと歩みを進めていくことが始まるのです。そのことを確かめていく集いが今日のこの報恩講なのです。

※次回の定例法要は2019年元日に勤められる「修正会」。引き続き1月14日(月)成人の日には「新春法会(落語会)」が開催されます。ぜひお参りください。

 
2018報恩講9

2018報恩講5
2018報恩講11
2018報恩講12
2018報恩講7
2018報恩講8
2018報恩講4
2018報恩講13
2018報恩講6
2018報恩講2
2018報恩講10
2018報恩講3