7月7日(日)
お盆法要(盂蘭盆会/うらぼんえ)が勤められ、新盆を迎えられた皆様はじめ、大勢の方々がお参りくださいました。ご法話は百々海真先生(港区・了善寺住職 / 東本願寺教化教導)にご出講いただきました。
法話聞書(抄出/文責・専行寺)
・法話のテーマ「無数の阿弥陀まします」は、親鸞聖人のご和讃「無碍光仏のひかりには 無数の阿弥陀ましまして 化仏おのおのことごとく 真実信心をまもるなり」からのお言葉です。私が意訳したものも申し上げます。「念仏申すとは、これまでまったく見えなかった世界がはっきりと見えてくる時の到来である。私をとりまく他者・言葉・出来事は、実はみな阿弥陀仏の化身であったとの発見である。と同時に、どうか本願のまことに目覚めてくださいとの如来の祈りに出会うことである」。要するに「阿弥陀とは真実それ自身が人間を目覚めさせようとする活動(はたらき)」だと。実は仏法に出会うことによって育てられる感覚は、気付かされてみたら、私が読んでいる新聞の一句も、小説の一節も、お孫さんの何気ない一言も、日ごろの自分のモノの見方・考え方が果たしてこれでいいのかどうか。むしろこれを当たり前としていたことが当たり前でなかったと、自分のモノの見方・モノサシがひっくり返されること。そのはたらきが無数の阿弥陀。私の出会う一切の出来事が私を目覚ませようとするはたらきであった。こういうことを歌っている和讃であります。この「無数の阿弥陀まします」という言葉をテーマにしましたのは、少なくとも親鸞聖人においてはそれが利益(りやく)であると仰っていることを確かめたかったのです。
・皆さん「仏教とはどういう宗教か」と聞かれたらどう答えますか。私の友人がニューヨーク在勤時に「あなたの信仰は何か」と聞かれ「ブッデイスト(仏教徒)」と答えた。さらに「仏教とはどういう宗教か」と聞かれたといいます。「3年前におばあちゃんの葬式を寺でやってもらった」とか「毎年1度は墓参りしている」とか、そんな話をしても答えにはならないことはわかったと。例えば「感謝」とか「供養」という言葉が仏教を象徴するものとして出てくると思います。これらも伴うんでしょうが、実は仏教そのものは「目覚め」の宗教なんです。仏陀(ブッダ)とは「目覚めた人」という意味ですね。自分は本当のことが見えていなかった。無明(むみょう)という迷いに目覚めた方。仏陀釈尊・お釈迦さまはその第一号です。私たちが中心に据えている知識や感覚や価値観が本当に確かなものかどうか。実はそのモノサシが確かではなかったと目覚めさせることが仏教という宗教です。「仏教とはわからんことを覚えることではない。わかっていると思っていたことが、実は少しもわかっていなかったと気付くことである」。これは訓覇信雄先生の言葉です。
・仏教で語られる真実の「供養」とは、私たちからの慰霊鎮魂の儀式ではありません。こちらからという形をとりますし、亡き方にお心を寄せるわけですが、本当に亡き方が喜ぶとはどういうことなのでしょうか。遺された私たちが本当に頭を下げずにはおれないことに出会うこと、供養せずにはおれない、敬わずにはおれないことに出会う、その出会いが「讃嘆供養」という言葉で教えられます。「讃嘆」つまり「ほめたたえる」ということは、既にそうなっていることが本当に見えてきたということです。正信偈に「獲信見敬大慶喜」「見敬」とあります。敬うべきことが見えてくる。これが実は供養という言葉と重なる言葉なんですね。いつも新鮮で、私の闇を破ってくる出会い・他者・言葉・出来事。こういうことを「見敬」という言葉で親鸞聖人は仰られます。
・一般的に「供養」という時には「慰霊鎮魂」ということがイメージされますが、そもそも仏教では霊魂は説きません。霊魂があるともないとも言わない。つまり「霊魂不説」の立場が仏教です。亡き方を慰めたり鎮めなければいけない人として見ている私たちの死者観が本当に確かなものですか。実はそう見ている私たちの死者観そのものが翻させられることが「讃嘆供養」の世界なんです。例えば、ご葬儀で「どうぞ安らかにお眠りください」と仰った方が、旅行に出かける時には「見守っていてください」とも仰いますね。眠らせたいのか起きていてほしいのか、どちらなんでしょうか。亡き方を尊んで仰っていること、つまり「善」ですから、これが虚偽だということがなかなか見えません。もっと言えば、亡き方にお心を寄せるということがなくなってきている現代の日本では「法事を勤める意味はあるのか」というお話にさえなります。お釈迦さまは死者に向かってものを語っているわけではありません。「人間は生まれた限り死にゆく身である」ということは語ります。亡き方からそのことを教えられたという立場の逆転、死者観の翻りこそがすべてなんです。法事は亡き方にお経を聞かせて喜ばせる儀式ではなかった。この一点に私たちが仏教徒として目覚めることが願われているのです。
・亡き方が仏さまですともし言えるなら、それは私がその人の生涯から聞き取るべきことを聞き取った時です。それは良い事ばかりではありません。人生の厳しさを見せてくださる仏さまもおられますね。「あんなことは真似したくない」とか「借金を残していった」とか「散々おふくろを泣かせた」とか。しかし、そこに人間がまっすぐ生きられないということを教えてくださる方もいるんだという世界が広がれば、その時にその人は仏さまです。生きている者が亡くなった方をどう見るかということです。私は確かなものであって、相手は不確かなものだから導いてあげる、そういう所には親鸞聖人はお立ちになりませんでした。こちらから亡き方を供養するという形をとりますが、実は最も安らかなのは亡き方かもしれません。私たちが手を合わせる前から安らかであります。この世の娑婆の仕事を終えられたんですから。墓参りをしてもしなくても文句ひとつ言わないですよ。法事を勤めることで遺った者がお念仏の世界にふれる。頭を下げずにはおれないこと、敬わずにはおれないことに出会う、私たちの死者観・仏教観が変わるかどうか、そこが供養ということの中身なんです。
・中村忠二さんという方の詩をご紹介します。
「蝉さんよ、道で君をひろったがい。歌って歌って命つきてね。樹から落ちたんやなぁ。僕恥ずかしいよ」これだけの詩なんですが、葬儀とはこれ以外にないと思うんです。讃嘆供養という世界も、懴悔と讃嘆という宗教の骨格も全部ここに表現されています。一匹の蝉の死骸が「完全燃焼」ということを語っている。蝉は蝉の分限を生きた。蝉の業を果たして死んでいった。一切の人類がそうです。私たちもその最中です。善いとか悪いとか、好きとか嫌いとかいう後付けの世界を私たちは生きていますけれども、事実は動かない。厳粛です。なるべくしてなっています。お経によって災難が遠のくこともないし、お念仏は私の願った通りの生活が始まるための手助けもしません。そういう私の甘い考えを吹っ飛ばして、本来の世界に帰らせる声がお念仏であります。完全燃焼した蝉の生涯を讃嘆し、一方で「僕恥ずかしいよ」と懴悔しています。懴悔とは本当の自分が見えることであって反省ではありません。恥ずかしい自分しかいないという決着です。懴悔と讃嘆。ほめたたえるべき世界に出会うということは必ず懴悔をおこします。愚かさの自覚を生む。同時にその自覚をもたらした世界を仰ぐということがおこる。キリスト教も仏教もそうです。最も健康な宗教のあり方はこの懴悔と讃嘆です。妄信とか狂信とか陶酔ではなく、覚ます方向です。懴悔なき讃嘆は単なるお世辞。讃嘆なき懴悔は単なる自己批判ですね。愚かなものが愚かなままに立ち上がる世界、本当に愚かなものに真実の光が届いたという喜びです。蝉と人間との出会いとはいえ、これが葬儀の原風景だと思います。今日申し上げたかったことも、この詩におさまると言ってもいいんです。最初に「無数の阿弥陀まします」と申し上げました。蝉の生涯が中村さんの上にこういう感応道交の世界を開いたということは、つまり蝉が如来であった、私を促してくださる仏さまであったという目覚めですね。こういう世界が開かれることが人間のほんとうの利益だと教えられるのです。
・浄土真宗の寺院の本堂には七高僧と聖徳太子の掛軸が掛けられていますね。また正信偈は親鸞聖人がご自身の出会われた世界を私たちに呼びかけてくださっているお言葉です。インド・中国・日本の七人の先達(七高僧)の生涯を讃嘆しておられます。仏教というのは図書館にあるのではない。迷いに目覚めさせ、人間を本当の意味で護る。真実信心を護るというのは真実の歩みをもたらすということ。そういう方向を人間の上に開いてくるものだと。親鸞聖人にとってはその証しびと(証明者)が七高僧であり聖徳太子なのです。聖徳太子は皇族であり政治家。現代でいえば永田町のど真ん中で仏法を聞く生活をされたということです。私たちの日常生活そのものが仏道である。そのことを証した人として讃嘆しておられるのです。この盂蘭盆会を出発として、お互いにお念仏の教えに出会い直していくことこそ願われている一点だと申し上げて今日のご縁はここまでにさせていただきます。
※次回の定例法要は、9月22日(日)秋彼岸法要。講師は青柳英司先生(大谷大学真宗総合研究所東京分室 研究員)です。ぜひお参りください。