「お盆法要」が勤められました。

2020年07月30日

トップ > お知らせ > 「お盆法要」が勤められました。

7月5日(日)

お盆法要は、新型コロナウイルス防疫のため、第1法要(午前)第2法要(午後)に分け、それぞれ1時間弱の短い日程でお勤め致しました。玄関での検温。受付にはビニールカーテン。各所に消毒液。参加者全員マスクを着用。各法要とも本堂と仏間に分かれて座席間隔を広くとり、換気も徹底して開催されました。防疫のためとはいえ、寺の行事としては少々ものものしい雰囲気でもありました。合同法要への参拝にご不安のある方々には、個別に寺やご自宅でお勤めいただきましたので、参拝者は例年の半数ほどでしたが、それでも「久しぶりにお寺に出かけられて嬉しかった」というお声も多く聞かせていただき有難いことでした。法話は住職(釋正信/平松正信)の自勤。

法話聞書(抄出/文責・専行寺)

・「お盆」とは古代インド語サンスクリットの「ウランバーナ」の音写語「盂蘭盆(うらぼん)」を略した言葉。漢訳は「倒懸(とうけん)」といい、逆さ吊りの苦しみを意味します。私たち念仏の伝統においては、それを「真実に背いている私たちの姿」であると教えられます。

・お盆を迎え、亡き方を追憶されることも多いことと拝察します。家族というものは、ふだん何でも言い合って、そこで出会っているように思っています。ところが、亡くなられてみて初めて、その人の「ほんとうの願い」にふれるようなこともあります。感謝よりむしろ懴悔の気持ちが涌きおこることもありますね。そういう気付き、故人との改めての出会いというものが、手を合わせる心を深めてくれるのかもしれません。

・新型コロナウイルスの感染拡大で、経済的にも精神的にも不安を抱えている方が多い昨今です。今うっかりマスクを付けるのを忘れるとぎろっと睨まれますね。電車内で咳やくしゃみをされると逃げたくなりますし、マスクなしで大声でしゃべっているのを見ると腹も立ちます。誰しもうつされたくないですから、当然の反応でもあります。あるいは、感染者や医療従事者とそのご家族に向けて差別や偏見が生じています。私たちの姿がそこに映し出されています。朝日新聞に作家の吉村萬壱さんがこんな文章を寄稿されていました。

「我々は現在、自分や大切な人を守るために、その本能的感覚を呼び覚まそうとしているのかも知れない。その感覚の根底には、恐怖の感情がある。ウイルスは目に見えない。誰が感染しているかも全く分からない。すると次第に周りの人間の全てが化け物に見えてくる。それと同時に、自分もまた感染者かも知れないという疑念が湧き起こる。その恐怖に加えて、果たしてこの先、生活していけるのかという生存の恐怖がある。ある飲食店主は自らの先行きに関して『震えるほど怖い』と言っていた。それは多くの人々に共通する感覚だと思う。今や我々は、戦争や公害病や自然災害などと同様、歴史的な災厄に見舞われた当事者としての日々を生きている。未知の歴史的な出来事に対して当事者が怖がるのは、当たり前のことだ。しかしこの恐怖は、我々にとって本当に未知のものなのだろうか。ずっとこの恐怖を味わってきた人々が、我々の社会の底辺にいなかっただろうか、と考えてみることには意味がある気がする。不安定な生活に震えるほど恐怖し、他者を化け物のように感じながら生きてきた人々はずっと存在してきたに違いない。そしてこの災厄で、新たに大量の人々が同じ目に遭ったということではなかろうか。この災厄は、普通の善良な人々が、ある人々にとっては化け物や捕食者となっていたようなこれまでのいびつな社会のありようを、我々に問い直しているかのようだ」

・「自分だけは絶対うつるもんか」と意識を尖らせているうち、周りは化け物だらけに見えてくる。誰かの接近に身構えたり敵意に怯えてしまう。しかし、不安定な生活に怯える人はコロナ禍以前から社会にあったに違いないと。多くの人々が普通の人を化け物と感じて生きざるをえなくなって、社会のありよう、もっと言えば人間のありようが改めて問われているのではないかと。最後にこう書いておられました。

「『自分だけは絶対うつるもんか』と考えると周りは化け物だらけになるが、『自分は絶対に他人にうつさないぞ』と考えるだけで、周りの化け物は人の顔を取り戻すものである」

「自分だけは絶対うつるもんか」というモノサシでは、他人は自分に害悪をおよぼす化け物にしか見えません。その化け物の顔が人間の顔を取り戻すことが私たちに起こるのでしょうか。

・中島みゆきさんに「Nobody Is Right」というタイトルの楽曲があります。直訳すると「誰も正しくない」。1番はこんな歌詞です。

「もしも私がすべて正しくて とても正しくて 周りを見れば
世にある限りすべてのものは 私以外は間違いばかり
もしもあなたがすべて正しくて とても正しくて 周りを見れば
世にある限りすべてのものは あなた以外は間違いばかり
つらいだろうね その一日は 嫌いな人しか出会えない
寒いだろうね その一生は 軽蔑だけしかいだけない
正しさと正しさとが相容れないのは いったいなぜなんだ
Nobody Is Right  Nobody Is Right  Nobody Is Right 正しさは
Nobody Is Right  Nobody Is Right  Nobody Is Right 道具じゃない」

そして2番にはこんな歌詞があります。

「争う人は正しさを説く 正しさゆえの争いを説く

その正しさは気分がいいか 正しさの勝利が気分いいんじゃないのか」

人類の歴史は戦争の歴史であるとも言われます。それぞれが正しさを握って、正しさゆえの争いが始まる。国同士の争いには、時に民族問題や宗教も絡み、神仏のお墨付きの正しさを旗印に「聖戦」と呼ばれる争いさえ行われます。宗教の定義はひとまずおくとして、そういう現実があります。そして国と国だけでなく、私たち一人ひとりも周りの人との関係において、いつも自分の正しさを握っています。「自分が一番かわいい」という自我の分別によるモノサシは変えることはできません。私たちはその時の自分の都合によって目盛りがコロコロ変わってしまうような不確かなモノサシを握りしめ、時には振り回して周りを傷つけ自分さえも傷つけていきます。

・蓮如上人の『御文』に「一生はむなしくすぎゆくように候うこと、まことに自損損他のとが、のがれがたく候う。あさまし、あさまし」とあります。「(信も定まらぬまま)一生が甲斐なく過ぎ去っていくこと、まことに自損損他(自らを傷つけ他も傷つけていく)の罪から逃れられることはなく、まったく哀れなことだ」と。「つらいだろうね その一日は 嫌いな人しか出会えない」「寒いだろうね その一生は 軽蔑だけしかいだけない」。そういう私たちの生き方は、中島みゆきさんの言葉通り、孤独になっていくしかありません。しかし、自我の闇に沈む私たちの眼差しはそのことを痛ましいとも思いません。

・闇の中では手探りですから、自分が握りしめたものだけがたよりです。そこに光が差し込むと自分が握りしめていたのは物事の一面や一部分だったことに気づかされる。そういう人間の姿というものをずっと悲しんでおられる仏さまの光にふれることで、底知れぬ自我の闇に沈む私たちが本当の姿を知らされるのです。自我という殻の中に閉じこもっていた自分に気付かされ、広い仏の世界があることを知るのです。「頭を下げる世界」ではなく「頭の下がる世界」との出会いです。
・亡き方を縁にこうして仏縁にふれていただくということは、亡き方と仏さまとしてもう一度出会うこと、自分の姿を照らし出してくださる光として出会うことにほかならないのです。

※次回の定例法要は、9月20日(日)秋彼岸法要。講師は百々海真先生(東本願寺教導・了善寺住職)です。ぜひお参りください。
※新型コロナウイルス感染拡大の状況などにより予定を変更する場合もございます。

2020お盆法要3
2020お盆法要2
2020お盆法要1
2020お盆法要6
2020お盆法要4
2020お盆法要5
2020お盆法要7