「報恩講」が勤められました。

2015年11月17日

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11月3日(火)文化の日

宗祖親鸞聖人の報恩講(754回忌)が勤められ、大勢の皆様にお参りいただきました。法要を縁に帰敬式(法名授与式)も執行されました。
ご法話は、専行寺の仏教入門講座にもご出講いただいている海法龍先生(真宗大谷派 首都圏教化本部本部員・長願寺住職)。帰敬式にちなんで、仏弟子のこころ、法名等について懇切にお話しくださいました。

〈法話聞書〉
親鸞聖人はお寺を道場「ナラフイエ」と教えてくださいました。仏法(道理)を「習う家」です。仏法にふれて自分の生き方が定まったと仰いました。仏法にふれるにはそのこころにふれた人に出遇うことです。知識や解釈や教養でなく、自分の生き方として道理にうなずいた方々に出遇っていかなければなりません。そういう方々を「諸仏」といいます。教えに出遇った方々です。しかしご自分で「自分は諸仏だ」とは仰いません。親鸞聖人も自分はいつも弟子習う者という立ち位置だと仰っておられました。ですから真宗門徒は僧も俗も等しくお釈迦様の「釋」の一字を苗字として「釋氏」を名のる。それが法名です。

親鸞聖人の主著『教行信証』の正式名称は『顕浄土真実教行証文類』です。「浄土は真実であるということを顕かにする」ということですが、「真実ということを浄土という言葉を通して顕かにする」とも読めるわけです。私たちが真実にふれるための教えであり歴史である、と。仏教は私たちに「真実」「ほんとう」ということを伝えたい。なぜかというと、私たちが意識の底で「ほんとう」を求めているからです。気づかないかもしれないけれど、いい悪い、損得ということを超えて、私たちの内底に実は「ほんとう」ということを求めている心が流れているのです。仏教はそれを「菩提心」と呼びます。一般的な言い方では「宗教心」です。

一人ひとりの存在は尊い。しかしそれに背く人間がある。そのことを深く傷み悲しみ、自分自身の姿に目覚めてほしい、という願いが生まれ、それが南無阿弥陀仏の教えとなって私たちのところに届いています。「如」とは「あるがまま」。「いのちは皆尊い」ということをあらわします。それが私たちのところに来るから「如来」といいます。私たちが背いているから「如来大悲」。「ほんとう」ということにふれてほしいという呼びかけです。「他者とどう向き合っているのか?」「私のこころはどこに立っているのか?」私のこころのあり方をいつも問い返して、人々と同じ命を生きているんだというところに立ち返るような世界を私たちに開いてくださいます。そのことを私たちが生活の中でいただいていくことが願われ求められているのではないでしょうか。

※次回の定例法要は、2016年1月1日(金)に勤められる「修正会」です。ぜひお参りください。

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