「お盆法要」が勤められました。

2017年08月07日

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7月9日(日)

お盆法要が勤められ、新盆を迎えられた方々をはじめ大勢の皆様がお参りくださいました。仏前で共に手を合わせ仏法を聴聞するご縁をいただくということは、私たちを導いてくださる諸仏として亡き人と出会っていく新しい関係の始まりです。
ご法話は藤本愛吉先生(三重県・正寶寺住職 / 京都大谷専修学院元指導主事)。生活実感のなかでの仏法の受け止めをお話しくださいました。

〈法話聞書〉文責・専行寺
・「自分の人生に悔いはないか?」 昨年、心臓の手術をする前にこんな問いが湧きおこってきました。愛知の真宗門徒の農家に生まれ、36歳で浄土真宗の教えに会いたいと思い、一念発起して京都の学校で学んでお坊さんになりました。コツコツと勉強させてもらうなかで素敵な念仏の先生にもたくさんお会いすることができました。そして門徒さんに迎えられて、寺という自分の生きる場を与えられ歩んできました。いのちのギリギリのところで、そんな問いが湧きおこってきたのです。「ひとさまに一杯迷惑をかけてきたけれど、自分なりによう頑張って生きてきたかなぁ」と。そんな思いと共に麻酔で眠っていきました。手術後、裸で仰向けの自分の姿を見て、大きな赤ちゃんだと思いました。赤ちゃんなら赤ちゃんらしく何でも受け容れようと決めました。ここは仏様の教えを聞いてきて良かったなと思います。頭を使っちゃうと「なんでこんな目にあったんや」「なんでこんな体なんや」と悩むんです。仏さんの世界は「選ばず、嫌わず、見捨てず」だと聞いてきたので、身動きできない赤ちゃんにならせてもらおうと思いました。
・赤ちゃんとなって初めて飲んだ水は、これまでで一番美味しい水でしたね。ある先生が「いのちはみな繋がっています」「無味こそいのちの味です」と仰っていたことを思い出しました。当たり前にしていた水が新鮮そのものだったんです。生きていることはすごいことだなぁと改めて思います。仲野良俊先生が「何が不思議かと言ったら、こうして生きていること以上に不思議なことはないじゃないか」とよく仰っていました。皆かけがえのない一人一人として、この地上に生を受けて生きています。当たり前のように思って何も感じていなかった水を「これが水の味だ」と感じた。「いのちの味」です。私たちはいのちの新鮮な躍動を、咲きほこる花や採りたての野菜、生まれたての赤ちゃんに感じます。でも実はお年寄りだっていのちを生きているのですから、そのいのちは新鮮でピカピカなはずです。しかし、私たちの心が「何十年生きてきた」という思いをかぶせてしまうものですから、いのちのピカピカが見えなくなるのです。

・念仏に生きている人に出遇わなかったら、私も仏法なんてまったく聴くことはなかった。24歳の時、仏法を語り静かに「南無阿弥陀仏」と称えておられた先生のそのお念仏が響いて、ずっと私の人生を支えています。そういう「いのち」があるんだ。どうか目覚めていってほしいというのが仏様の願いです。お釈迦様が目覚めて「これが本当だなぁ」と。それを言葉にしたものが教えとなっているんです。「仏法」が「仏教」になった。目覚めて生きていく歩みを「仏道」といいます。これはお寺の所有物ではありません。いのちに根差した教えです。だから誰にでも響いていくものなのです。

・黒人解放運動のマーチン・ルーサー・キング牧師の『自由への大いなる歩み』という本を読んでいたら、面白い言葉を残しておられました。「人間はみなつながっている。あかの他人はひとりもいない」と。だから、キング牧師は白人がいくら暴徒化しても、白人を逆にいじめることは自分を傷つけることと同じだから、私は傷つけないと書いていました。まったくお釈迦様とひとつです。行き着くところにいくと、みな同じ言葉になって同じことを教えてくれるんだなと感動しました。私たちは当たり前のように生きて、少しでも楽に、少しでも楽しくと、どんどん欲望を広く使っていますけれど、根っこにあるいのちは、今ここにあることが本当に素晴らしいことだ、ここに安んじて生きていようと教えられているんですね。
・こうした法要を通して、亡き人を偲ぶなかで、今生きている事の確かさを確かめ合ったら、日々の新しい生活の中で何が大事なのか見つめ直していけるのです。

※次回の定例法要は、9月22日(木)秋分の日に勤められる秋彼岸法要。法話は渡辺誉先生(真宗大谷派東京教区駐在教導)です。
ぜひお参りください。

 

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