お知らせ

トップ > お知らせ > Page 11

お知らせ

「秋彼岸法要」が勤められました。

2018年10月09日

9月23日(秋分の日)

秋の彼岸法要が勤められ、大勢の皆様にお参りいただきました。仏前で手を合わせてお念仏申すご縁をいただくということは、私たちを導いてくださる諸仏として亡き人と出会う、新しい関係の始まりでありましょう。法話は「彼岸を迎えて」と題して、専行寺住職(平松正信)が勤めました。

〈法話抄録〉文責は専行寺にあります。

・「彼岸」とはサンスクリット語「パーラミター」(波羅蜜多)の訳語「到彼岸」を略したものです。迷いの此岸から悟りの彼岸に至ること。『観無量寿経』の日想観(西に沈む太陽を通して阿弥陀仏の西方浄土を観ずること)に由来し、太陽が真西に沈む春分と秋分の日を中日として前後3日、計7日間に修される法会が彼岸会です。悟りの世界に向かう仏道修行の行事。仏道修行というと大袈裟に感じますが、彼岸(浄土)を憶念することを通して、私たちの迷いの世界。迷いの姿を教えられる法会です。

・お経とはお釈迦様のご説法の聞書です。正信偈は厳密にいえばお経ではありません。いわば親鸞聖人が作詞された念仏讃歌、仏教讃歌です。浄土真宗のさまざまな行事で読み継がれてきましたが、特に朝晩のお勤めでも読誦されてきました。朝のお勤めはお寺だけのものではありません。私たち真宗門徒は毎朝お内仏(仏壇)の扉を開いて教えの言葉をいただき、生活の中で自分の姿を照らしてくださる仏さまの眼差しを大切に歩んでこられたのです。

・「経」の原語はサンスクリット語の「スートラ」。音写されたのが「修多羅」という言葉です。仏教では音写された言葉がたくさんあります。「南無阿弥陀仏」も「ナムアミターバ」「ナムアミターユス」という言葉の音写。直訳すると「限りなき光と命の仏に帰命(信順)します」という意味の言葉です。現代でも音写の言葉が生まれます。「勿体ない」や「生きがい」という日本語も音写されてローマ字でいろいろな国で使われていますね。音写をして原語の意味を損なわないように大切に伝えていくわけです。

・「スートラ」という原語の意味は「縦糸」。糸によって貫き保持することです。「経といふは経(けい)なり。経(けい)よく緯を持ちて疋丈を成ずることを得て、その丈用あり」中国の唐の時代の善導大師のお言葉です。「経」というのは縦糸。縦糸はよく横糸を貫きたもって布を織りあげていく。そうして織りあげられた布がはじめて用をなしていくものである、と。私たちの人生を布に譬えられています。横糸とは私たちが毎日出会っていく出来事といえましょう。横糸だけでは決して布は織りあがりません。毎日の出来事に一喜一憂するだけ、その場しのぎで人生を終えていくことにもなりかねません。縦糸は表には現れませんが、それがしっかりと張られずに横糸をどれだけ渡しても、その布は用をなさない、完成しないということです。

・私たち人間は業縁存在です。縁によって、どこへどう転んでしまうかわかりません。だからこそ、この私の生涯を貫く縦糸・よりどころとしての「経」をいただいていくことを教えられるのです。毎日の生活の中ですべて自己関心に終始しているような私たちを立ち止まらせ、この私の布(人生)を完成していく大切な課題として横糸をたもち、促しはたらきかけてくださる仏さまの眼を「経」からいただいていくのです。

・インドでは生活の中で左右の手を使い分けているそうです。右手は神聖(清浄)な手とされ、人と握手したり食事する時に使います。不浄な手とされる左手はトイレなどでお世話になります。その左右の手を一つに合わせるのが合掌なのです。インドの人たちの挨拶では、必ず合掌して「ナマステー(あなたを敬います)」という言葉が交わされます。初対面の人同士でも「あなたとの出会いを大切にしていきます」という心で交わされるのでしょう。考えてみれば、私たちはいつも自分にとって「良いか悪いか」「好きか嫌いか」「損か得か」と物事を分け隔てして見ています。合掌で両手を合わせるということは「私はあなたを、良い悪い、好き嫌いなどと分け隔てして見ていませんよ」と表現している姿のようです。本当に相手を敬う心は、物事を分け隔てする心からは生まれないことを教えらているのではないでしょうか。

・物事をありのままに見ることなく、自分にとって都合のいいものか悪いものか?と分け隔てし評価していく私たちのものの見方、比較していく心を仏教では「分別(ふんべつ)」と教えられます。人間皆モノサシが違いますが、同じ一人の人間のモノサシでも、その時の都合によって目盛がコロコロと変わるような不確かなものです。

・「役に立つか立たないか」「生産性があるかないか」「効率が良いか悪いか」こうした分別のモノサシが現代では特に幅を利かせているように感じます。8月に国連で、AI(人工知能)を搭載した「殺人ロボット兵器」を禁止するか否かが協議されました。相手を殺すか殺さないかの決断をロボット(機械)に任せるのは人道に反するとして禁止を呼びかける国々に対し、日本は「正しく使えばより正確に攻撃し巻き添えを減らすことができる」という趣旨で慎重派に回ったそうです。つまり「より効率的に戦争ができるなら」といって殺人ロボットを擁護したわけです。憲法で戦争と武力行使を放棄しているにもかかわらず、このような発言がされたと聞いて驚きました。無人機やロボットに身内を殺された人々は、その復讐の矛先を手の届く民間人にテロという形で向ける可能性が高く、それもまた巻き添えなのではないでしょうか。こんなところにも当たり前のように「効率的であれば良い」という価値観があるわけです。

・最近ある女性議員が「LGBTの方々ために税金を使うことに賛同が得られるのか。彼ら彼女らは子どもを作らないから生産性がない」という趣旨の意見を雑誌に寄稿して問題になりました。そもそも「子供を授かるから生産性がある」という理屈もおかしいのですが、生産性があろうとなかろうと誰でも安心して生きられる社会を創っていくのが政治家の仕事ではないでしょうか。これも「生産性があることが良い」という価値観です。ここでこの女性議員を批判しようというわけではありません。「役に立つか立たないか」「生産性があるかないか」と人を切り刻んでいくようなモノサシは私たちの中にもあるのではないかということを申し上げたいのです。

・例えば「健康第一」ということを仰る方は多いですね。できれば私もずっと健康でありたいと思います。しかし、年を取ったり病気をして、若い時のようには動けない。だんだん役に立たなくなることは誰にでも巡ってくることです。もし人から「あの人ももうダメだね」なんて言われたら蹴っ飛ばしてやればいいのですが、自分自身がその「健康第一」という考え方に凝り固まっていたら、若い時のようには動けなくなった自分を自分自身が認められないということになっていきます。「健康第一という考え方は実は不健康な考え方です」と、ある先生が仰っておられました。自分の価値観が自分のいのちそのものを傷つけていくというおかしなことになっていくわけです。一人ひとり誰と代わることのできないいのちを、いろんなものに支えられながら生きています。そのいのちに上とか下とかいうことがあるのかというのが親鸞聖人の眼です。元気で働けるときだけ私には価値があり、働けなくなったら価値がなくなったのではないかと思ってしまう。これは偽なるもの、よりどころにしてはならないものです。

・親鸞聖人は「真と仮と偽」ということを教えてくださっています。「仮」とは一時的な仮もの。例えば、定年を迎えた方、子育てを終えた方が、そのあとに何をしたらいいのかわからなくなって虚しさに落ちてしまう「燃え尽き症候群」というものがあります。会社勤めも子育ても大事なものであり、日常生活に目標や活力を与えてくれるものですが、終わってしまえば消えていくものです。「一生を貫くようなよりどころとは何だろうか」という問いかけです。もう一つの「偽」とは偽もの。よりどころにしてはならないもの。これをよりどころとすると必ず縛られ、逆に自分が苦しむことになります。人間に対してさえも「役に立つか立たないか」と。ひどい時には「生きる価値があるかないか」とそこまでいってしまう。この偽のよりどころはそういうものを持っているわけです。周囲の人や自分さえもそのモノサシで計って切り刻んでいくことが起きる。お互いに計ったり計られたりということになります。

・「役に立つか立たないか」「生産性があるかないか」「効率が良いか悪いか」こうした分別のモノサシが現代では相当に幅を利かせ、世の中全部がそのなかで動いていますから、そういう生き方を痛ましいとも思いません。人と比べあったり優劣を競ったりしていることが愚かだとも思いません。それが「闇」です。本当に闇の中でいて光の存在を知らない人は、自分が闇にいることに気づきません。光が差すということは、今まで闇の中にいたということに気づくこと。具体的な光・太陽とかではなく、自分の今までのものの見方、間違いないと思っていることを闇に譬え、その生き方が痛ましいことになっていた、自分を苦しめることになっていたと気づくことが光に遇ったことだと譬えられるのです。仏や浄土を光と呼ぶのはこのことです。「今日から真のよりどころを手に入れました」という話ではありません。「これは一時的な仮のものだった」「よりどころにしてはならない偽物だった」ということがはっきりする。これが真よりどころとの出遇いの中身です。今までのあり方を問い返すような形で、真宗(真のよりどころ)というものが私たちのところにやってくるのです。

・「蟪蛄春秋を識らず、伊虫あに朱陽の節を知らんや」曇鸞大師のお言葉です。
夏生まれて夏死んでいく蝉は春と秋をしらない。しかし夏という季節を本当に知っているといえるのだろうか、という問いかけです。四季それぞれを知っている人こそが、今は春、今は夏、今は秋、今は冬とわかるわけです。夏生まれて夏死んでいく蝉は、春や秋冬のことも知らないかもしれないが、今が夏だということも分からずに死んでいくのではないか。これは譬えですから蝉の話ではなく我々人間の話です。人間が自我の意識で自分の価値観だけで物を見て、それがすべてだと思って生きているならば、それは本当には物が見えていない。本当に生きたことにもならないのではないか、と。

・細川巌先生が私たちの姿を譬えてくださっています。
「私たちは生まれたままでは卵の殻の中にいるような存在です。卵の殻の中にいて、幸せになりたい、と思う。どうすれば幸せになれるだろうか。できるだけ得になることを心掛けていこう。損になることには近寄らないようにしよう。そのようなことを考えながら私たちは幸せを目指して生きています。しかし、善悪、損得、勝ち負けをしっかり考えながらも、それらに振り回されて、結果として卵は腐って死を迎えてしまいます。卵は腐って死ぬために生まれてきたわけではありません。卵は親鳥に温めてもらい熱を受ける。その熱が私たちにとって仏の教えなのです。この教えを受けていくうちに、殻の中で成長していくのです。そして時機が熟してひよこになる。ひよこになることを禅宗では悟りといい、浄土教では信心をいただくといいます。この卵の殻というのは「私が、私が」という自己中心の思いです。私にとって善か悪か、私にとって得か損か、私にとって勝ちか負けかと、いつも「私が、私が」という殻があるわけです。殻の外に出て初めてひよこは自分が殻の中にいたことがわかります。そして大きな仏の世界があることを知るのです。そして大きな世界からのお育てをいただきながら、ひよこは親鳥になる。それを仏といいます」

・自我という殻の中で私たちは、好き嫌い・損得・勝ち負け・役に立つ立たない、ということに振り回されて生きています。仏の教えという温もりをいただいて殻の中で成長し、ひよことなって自我の殻の中で生きていたことを知る。殻が割れても自我がなくなるわけではありません。頭の上に殻が乗っかっているようなものです。この自我に覆われている自分に目が覚めて、問題になって、初めて人間としての本当の歩みが始まる。それを仏道と教えられるのです。

※次回の定例法要は、11月3日(文化の日)に勤められる報恩講。ご法話は竹部俊惠先生(富山県南砺市 妙蓮寺住職・本願寺横浜別院前輪番)です。ぜひお参りください。

 
2018秋彼岸3
2018秋彼岸2
2018秋彼岸1
2018秋彼岸4
2018秋彼岸5
2018秋彼岸6

「お盆法要」が勤められました。

2018年08月11日

7月8日(日)
お盆法要(盂蘭盆会/うらぼんえ)が勤められ、新盆を迎えられた皆様をはじめ、大勢の方がお参りくださいました。ご法話は藤本愛吉先生(三重県・正寶寺住職 / 大谷専修学院 元指導主事)にご出講いただきました。

梵語(古代インド語)の「ウランバーナ」を音写したものが「盂蘭盆」で、それをお盆と称しています。「ウランバーナ」の原意は「逆さ吊り(倒懸/とうけん)の苦しみ」で、それは「真実に背いている私たちの姿」であると教えられます。

お盆はそもそも『仏説盂蘭盆経』に説かれている釈尊の弟子・目連尊者(もくれんそんじゃ)の物語に由来します。目連尊者の母は餓鬼の世界に落ち苦しんでいました。(盂蘭盆はその姿〈倒懸〉を意味しています)。目連は母を助けたいと食物を運びますが、すべてが火や灰に変わってしまいます。どうすることもできない目連は師・釈尊を訪ねました。すると釈尊から安居(あんご)の最終日(7月15日)、百味の飲食を盆に盛り、仏や菩薩や僧などのすべての聖衆に供えるよう教えられます。目連がそれを実践すると、仏法僧の三宝の功徳により、母は餓鬼の世界から救われ、目連自身もまた愛憎の執われから解放されたといいます。目連が最後に釈尊に教えを求めたように、真実の教えにふれることがなければ、私たち一人ひとりの真の安心が成り立たないことを教えています。

私たち真宗門徒にとってのお盆法要(盂蘭盆会)は単なる先祖供養の行事ではありません。「歓喜会(かんぎえ)」とも称されるように、私にまで届けられているいのちが、いかに稀有なものであり、尊いものであるかを教えられる仏事です。そのいのちをたずね、仏法を聞き続け、私自身がお念仏を喜べる身となることを、亡き方々から願われているのです。お盆は私のための仏事だと気付かされることです。(参照 真宗大谷派東京4組発行『真宗門徒の葬儀』)

次回の定例法要は、9月23日(秋分の日)秋彼岸法要です。ぜひお参りください。

2018お盆1
2018お盆2
2018お盆5
2018お盆6
2018お盆3

 

「永代経法要」が勤められました。

2018年05月28日

5月13日(日)
永代経法要が勤められ、大勢の皆様がお参りくださいました。
これまで専行寺にご縁のあったすべての方のご法事であり、永代にわたってお経が読み継がれ、教えが伝えられていくことを願って勤められます。
ご法話は松井憲一先生(京都・道光舎主宰)から「共に凡夫」をテーマにお話しいただきました。

法話聞書(文責は専行寺にあります)

・大切な方とのお別れがご縁で今日お参りいただいた方も多かろうと思います。「あの人はもういない。温もりを感じることができない」というのは大きな悲しみであり損失ですが、お別れをご縁にこうして手を合わせ南無阿弥陀仏と申すことは、生きている時とは違う新しい関係の出会いが始まっているのではないでしょうか。亡くなられてみて初めて涙して「ありがとう」「ごめんなさい」と言える関係があるものです。

・「もしもこの世が喜びばかりなら、人々は勇気と忍耐を学ばなかっただろう」ヘレンケラーの言葉です。また「死を師として生きよ」とある先生が仰っていました。亡くなっていかれた方々は必ず私たちに願いをかけていかれたはずです。その願いをもう一度聞き直すことが、遺された私たちの責任です。「弔い(とむらい)」とはもともと「訪う(とぶらう)」訪ねていくということが元です。「安らかにお眠りください」とよく言いますけれど、「あなたこそ安らかに大切に生きてください」と向こうから願いをかけられているんです。そのことに気付けるかどうかが大切なことです。その気付き、仏さまと私との応答が南無阿弥陀仏であります。

・「自力というは、我が身をたのみ、我が心をたのむ、我が力をはげみ、我がさまざまの善根をたのむひとなり」親鸞聖人の言葉です。「身」を使い「心」をはたらかせ「力」を注ぎ「善根」を積み重ねる。その行為そのものは大切なことです。その行為を「我をたのむ道具」に利用している、そのことが自力だと指摘しているのです。自力とは「我をたのむ人」だと。この「我」が問題なんです。

・「人皆心あり、心おのおの執るところあり。彼是すれば則ち我は非す。我是すれば則ち彼は非す。我必ずしも聖に非ず、彼必ずしも愚に非ず、共に是れ凡夫ならくのみ。」聖徳太子『十七条憲法』第十条の一節です。「皆それぞれ自分中心にモノを考える。だから私が良いと言ったら彼は悪いと言う。彼が良いと言ったら私は悪いという。いつもアベコベになる。けれども私は必ずしも聖人でもないし、彼も必ずしも愚かな人でもない。共に凡夫だ」と。我を中心にしか生きられない凡夫である、このことに気付くかどうかという問題です。

・「請うなかれ、求むるなかれ。なんじ何の不足かある。もし不足ありと思わば。これなんじの不信にあらずや。如来は、なんじがために必要なるものをなんじに賦与したるにあらずや。もしその賦与において不充分なるも、なんじは決してこれ以外に満足を得ること能わざるにあらやず」清沢満之先生の『絶対他力の大道』の一節です。特別に自分の都合のいい事だけを請い求めてはいけません。もし不足があるなら、生かされているいのちに対する不信ではないのか。無量寿如来・仏は私たちに必要なものを充分に与えてくださっているではないか、今あるこの私の現実をいただく以外にたすかる道はありません。今この私の身をいただくという時に、「共に凡夫」と頷いていく眼差しが要であることを教えていただいているのです。

※次回の定例法要は、7月8日(日)に勤められるお盆法要です。法話は藤本愛吉先生(大谷専修学院 元指導主事・三重 正寶寺住職)。ぜひお参りください。

2016報恩講 風鐸
2018永代経1
2018永代経4
2018永代経3
2018永代経5

「春彼岸法要」が勤められました。

2018年04月30日

3月21日(春分の日)

春の彼岸法要が勤められ、大勢の皆様にお参りいただきました。仏前で手を合わせてお念仏申すご縁をいただくということは、私たちを導いてくださる諸仏として亡き人と出会う、新しい関係の始まりでありましょう。ご法話は「真宗門徒の葬儀―弔うということ―」専行寺住職(平松正信)が勤めました。

〈法話聞書〉(文責は専行寺にあります)

「弔う(とむらう)」とは「人の死を悲しみいたむ」という意味ですが、「訪う(とぶらう)」という言葉に通じています。「亡き人のおこころを訪ねていく」「亡き人の本当の願いにふれる」ことが供養の原点と言えるのではないでしょうか。

一般的に「供養」というと、寺でお経をあげてもらうというイメージですね。儀式としては、仏さまに向かって私たちがお勤めをしてさしあげるという形です。死者の冥福を祈る「追善供養」というひとつの伝統がありますが、その典型です。ところが、「供養」という言葉の原語はプージャーと発音される古いインドの言葉で、「敬い」という意味です。尊敬をもってねんごろにもてなす。つまり三宝(仏・法・僧)に対する「敬い」の具体的な表現として、香・華・灯明などをお供えしたり読経したりすることが供養ということなのです。私たちは読経を供養の手段にしてしまっていないか。そのことをむしろ仏さまから問いかけられているのでしょう。

「頭を下げる」と「頭が下がる」は違います。「頭を下げる」というのは、下げようと思えばいつでも下げられます。「頭が下がる」のは、頭が下がるものとの出遇いがあって初めて成り立つことです。私たちが本当に敬うべきものに出遇うことが本当の意味での供養なのです。その意味で、仏法聴聞という「聞法供養」と、わが身を懺悔し仏を讃嘆する「讃嘆供養」ということが、お念仏の伝統の中で大切に教えられてきました。

葬儀にまつわるさまざまな習俗(迷信)があります。「友引に葬儀を出すと故人が友を引く」という語呂合わせや「拾骨の箸渡し」「お清め」等々。死に対する怖れや不安から「死は穢れである(死穢)」という考え方となり「お清め」が必要だということになっています。しかし、私たちが抱える死への怖れや不安は、このようなおまじないのような行為で本当に解決するのでしょうか。

清沢満之師は「生のみが我等にあらず、死もまた我等なり」と仰いました。仏教では死を穢れとして受け止めることはありません。死に対する怖れや不安を本当の意味で超えていく眼差しを与えてくれるものです。「生死一如」という言葉の通り、私たちの生と死は一如(ひとつのごとし)、一枚の紙の表裏のようなものです。自分の母親のお腹の中でいのちをいただいた瞬間から、死と共に歩んでいます。生だけでなく死するということも含めて、いのちの厳粛な営みです。床の間の掛軸は表側の紙だけでは成り立ちません。表側の紙に何枚もの紙が裏打ちされてやっと掛軸が完成します。私たちの人生を掛軸に例えるならば、表側が生、裏側が死でありましょう。死という裏打ち、つまり死から生を見つめる眼差しをいただいて、生きることがあきらかになる。「殺」は「生」を奪うものですが、「死」は「生」を照らし出すものなのです。

「あなたはこの限りある生をどう生きていくのですか?」大切な方の「死」が私たちの「生」にこのような厳粛な問いを与えてくださいます。悲しみを縁として、それぞれが自分の生きざまを教えにたずねていく出発点が葬儀なのです。

あるお寺の掲示板に書かれていた言葉です。

「南無のない阿弥陀は死後の観念。阿弥陀のない南無は現世の利益」

念仏申すといっても、南無(帰命)がなければ、阿弥陀仏に死後の往生を願うだけのこと。阿弥陀仏(本願)がはっきりしなければ、自我中心の現世利益に過ぎない。信という形をとりながら、どちらも自分の生き方が問われることがないという厳しいお言葉です。

讃嘆供養とは、讃嘆と懺悔がひとつになっている仏事だと教えられます。どこまでも「自分が可愛い」というところで生きている私たち。大切な方の死がそんな私たちの懺悔のこころをも引き出してくださる。供養されているのは私たちなのでしょう。「えらばず、きらわず、みすてず」という阿弥陀の本願にふれ、「えらび、きらい、みすてる」私の生き方が問い返されるのです。

「供養」とは、亡き人の本当の願いを訪ねていくことであり、仏法聴聞(読経)によって、亡き人と遺った私たちが真に出遇うこと、この私の生きざまを照らしてくださる仏さまであったと深く拝めることによって成り立つことなのです。

※次回の定例法要は、5月13日(日)に勤められる永代経法要。ご法話は「共に凡夫」松井憲一先生(京都・道光舎主宰)です。ぜひお参りください。

 

2018春彼岸2
2018春彼岸
2018春彼岸3
2018春彼岸5
2018春彼岸6

「東本願寺沖縄別院・南部戦跡と美ら海の旅」ご報告

2018年01月31日

1月23日から25日にかけて沖縄参拝旅行に出かけました。前夜までの雪で出発が危ぶまれましたが、1時間遅れての羽田出発となりました。

初日は南部戦跡めぐり。最初に訪れた「糸数アブチラガマ」では地元のボランティアガイドさんによる説明。ガマとは自然洞窟のことで、沖縄戦時には指定避難壕となり日本軍陣地壕や倉庫、戦場が南下すると陸軍病院の分室となり、軍医・看護婦・ひめゆり学徒隊が配属され、全長270mのガマ内は600人以上の負傷兵で埋め尽くされたといいます。
次の平和祈念公園「平和の礎」は、沖縄戦で亡くなられたすべての方のお名前が刻まれています。参加されたご門徒がお父様のお名前の前に念願の参拝を果たされ、参加者一同でお勤めをすることができました。
二日目は首里城から東本願寺沖縄別院に参拝したのち中部北部方面へ。別院では基地を抱えた今の沖縄の問題、檀家制度のない沖縄での教化活動のご苦労など、輪番さんから熱のこもったお話が。
最終目は古宇利島・今帰仁城跡・美ら海水族館などの観光地めぐり。二泊三日ながら盛りだくさんなスケジュールでした。

沖縄ののどかな生活空間を切り裂くような軍用機の爆音を、旅行中に何度も聞きました。県民の4人に1人が亡くなられたという沖縄戦の悲しみは、今なお基地問題という形で現存していることを実感させられた旅でもありました。

 

abutiragama
2018沖縄旅行1
2018沖縄旅行13
2018沖縄旅行3
2018沖縄旅行6
2018沖縄旅行 別院
2018沖縄旅行5
2018沖縄旅行4
2018沖縄旅行7
2018沖縄旅行9
2018沖縄旅行10
2018沖縄旅行8

「修正会」「新春法会」が開催されました。

2018年01月30日

1月1日(月)元日
10時より「修正会(しゅしょうえ)」が勤められました。
新年を迎え、仏前にて心静かに自分自身を見つめ、1年の歩み出しを始める法会です。
式次第は、➀開扉 ➁静座 ➂三帰依 ➃勤行 ➄献杯の儀 ⑥法話(住職挨拶)。
終了後、書院にてお汁粉(ぜんざい)が振る舞われました。

2018修正会2
2018修正会3
2018修正会1

 

1月8日(月)成人の日

「2018年新春法会」が勤められました。
式次第は、➀勤行 ➁献杯の儀 ➂挨拶 ➃落語 ➄懇親会(福引)
落語会には林家正雀師匠とお弟子さん方が出演され、本堂に笑顔があふれる華やかな催しとなりました。終了後の懇親会では福引も行なわれました。

20180108
20180108-3
20180108-5
20180108-2
201801

専行寺では、本年もさまざまな行事や集いが開催されます。ご参拝を心よりお待ちしております。

林家正雀師匠 来たる!

2017年12月20日

2018年お正月の行事は、元日恒例の「修正会」に続き、8日(成人の日)に「新春法会(新年初参り&落語会)」が開催されます。林家正雀師匠とお弟子さん方がお越しくださいます。新年の献杯と福引もどうぞお楽しみに!皆様ぜひお誘い合わせてお出かけください。
※詳細はこちら>新春法会2018

%e6%9e%97%e5%ae%b6%e6%ad%a3%e9%9b%80

1月・2月・3月の行事案内

2017年12月20日

1月

◇修正会
1月 1日(月)元日 10時
〈日 程〉開扉・静座・勤行・献杯・法話(専行寺住職)

◇新春法会(「新年初参り」と「落語・尺八&箏の調べ」)
1月8日(月)成人の日
〈日 程〉13時30分 勤行・挨拶・献杯
14時    落語(林家正雀さん・豊田家金平さん・林家彦星さん)
15時30分 福引・懇親会
※詳細はこちら>新春法会2018

◇参拝旅行「東本願寺沖縄別院・南部戦跡と美ら海の旅」
1月23日(火)~25日(木)
※詳細はこちら>沖縄別院・南部戦跡と美ら海をめぐる旅

◇真宗大谷派東京教区 報恩講(東本願寺真宗会館)
1月26日(金)10時50分 帰敬式(法名授与式)法話 二階堂行壽 先生(新宿区・専福寺住職)
1月27日(土)11時30分 逮夜法要   法話 木越康 先生(大谷大学学長)
16時10分 報恩講の夕べ 講演 知花昌一 先生(東本願寺沖縄別院)
1月28日(日) 8時    晨朝法要
9時30分 日中法要   法話① 伊藤大信 先生(横浜市・西教寺)
合唱・お斎(食事)・勤行
法話② 木越康 先生(大谷大学学長)
※詳細はこちら>東京教区報恩講

2月

◇「ピラティス教室」(申込制)お寺でカラダもリフレッシュ!
2月 5日(月)13時
〈指 導〉竹井景子さん(ピラティス&ジャイロキネシス トレーナー /ダンス インストラクター)      〈参加費〉500円
※ヨガと同じストレッチ効果とともに、体幹の筋肉を鍛え、脊柱や骨盤も整えていく「ピラティス」。
普通に生活しているだけでは失われていく筋力を回復させてくれます。トレーナーの竹井景子さんは専行寺ご門徒のお嬢さんです。一人ひとりにあったトレーニングで指導してくださいます。
※お申込みは専行寺へどうぞ。

◇「仏教入門講座」
2月 5日(月)14時30分~16時30分 終了後、懇親会。
〈法 話〉「正信偈のこころ」海 法龍 先生(長願寺住職 / 首都圏広報誌『サンガ』編集委員)
〈参加費〉500円
※これから仏教を聞いていきたいという方にもわかりやすい入門講座。偶数月開催。

◇「真宗大谷派東京4組同朋会」
2月6日(火)13時30分~16時30分
〈会 場〉安閑寺(文京区小石川2-13-13)
〈テーマ〉「わたしが歩む真宗〜正信偈にみるわたし〜」
〈法 話〉堀 秀隆 先生(台東区・来應寺住職)
※申込制(詳細は専行寺までどうぞ)

◇「真宗大谷派首都圏大谷派開教者会 報恩講」
2月17日(土)11時〜15時 開式・法話・お斎・勤行・アトラクション(坊さん漫才)・閉会
〈会 場〉東本願寺真宗会館(練馬区谷原1-3-7)
〈法 話〉「私と親鸞聖人との出遇い」青木新門 先生(作家)
※申込制 (真宗会館 TEL03―5393―0810)

3月

◇春彼岸に向けての「仏具お磨き奉仕」
3月13日(火)10時~12時(作業終了後、昼食)
※作業しやすい服装でお出かけください。昼食は寺で用意します。
※ご奉仕の可能な時間だけのご参加でも結構です。ご協力をお願いします。

◇「輪読会」
3月13日(火)13時~14時30分(上記の奉仕作業日の午後。昼食後に開催)
※『サンガ』(東本願寺「真宗会館」首都圏広報誌)『同朋新聞』(東本願寺発行)などを輪読しています。

◇「春彼岸法要」
3月21日(春分の日)11時~13時30分
〈日程〉勤行・法話・お斎(食事)
〈法話〉専行寺住職 平松正信
※亡き人を偲びつつ「生きる」ことをともに尋ねてまいりましょう。
※簡単なお弁当を用意しています。墓参はぜひ法要に合わせてお出かけください。

◇「春彼岸」
3月18日(日)~24日(土)
※墓参およびご門徒宅お内仏参勤

◇「煉山の活き活き尺八教室」
〈指導〉工藤煉山さん(都山流尺八演奏家・コンテンポラリーユニット「SARUME」主宰)
※詳細はこちら> 工藤煉山さんホームページ LESSON

「報恩講」が勤められました。

2017年12月15日

11月3日(金)文化の日

宗祖親鸞聖人の「報恩講」が勤められ、大勢の皆様がお参りくださいました。ご法話は竹部俊惠先生(妙蓮寺住職・本願寺横浜別院 前輪番)。富山県南砺市の井波からご出講くださいました。
「報恩の報、報いるとは、私が知らされたことを自分の生きざまとして行じていくこと」。このことを親鸞聖人のご生涯をたずねつつ、さまざまな角度からお話しくださいました。

〈法話聞書〉文責・専行寺
・「恩」ということが忘れ去られ、「報恩」という言葉を聞いてもピンと来ない時代になっているかもしれません。インド仏教にも「恩」を意味する原語があります。パーリ語で「カタンニュー」と発音される言葉です。「カタン」とは「私を私たらしめているものがある」そして「ニュー」とは「それを知らされる」ということです。「なされたことを知る」という意味で「知恩」と訳されます。私を私たらしめているものがあることを知らされるという意味なんです。
・私たちの常識的な考え方は、私がまずあって、そして私が生きていくうえで手助けになっていく都合のいいものを良しとし、邪魔なもの、都合の悪いものは悪しとしていく。お釈迦様が教えてくださっているのは、その私が私たらしめられているそもそものものがある、私を超えたものと言った方がいいのかもしれません。それが仏教の核心です。そういうことを「恩」という。そのことを何よりも身をもって教えてくださった方が親鸞聖人です。
・「報恩」とはその恩に報いていくことです。報道の報ですから「知らせる」という意味があります。知らせるためには自分がまず頷かなければならない。お互い知らせたり頷いたりして、その道を歩んでいく、行じていく。報いるとは行じていくこと。つまり自分の生きざまにしていくことです。浄土真宗の伝統では「念仏の信者」とは呼ばず「念仏の行者」と言いますね。「いい考え方ですね。信じます」というのは「報恩」ではなく「謝恩」なのでしょう。謝恩セールの謝恩講ではありません。
・自分が広い世界に頷かされ、頭が下がったならば、そのことをお知らせしていく。自分もその道を歩ませていただく。行じて自分の生き方にしていく。それが「報恩」のおこころなのです。

※次回の定例法要は2018年元日に勤められる修正会です。ぜひお参りください。

 

2017報恩講4
2017報恩講2
2017報恩講
2017報恩講6
2017報恩講5
2017修正会6

「お盆法要」が勤められました。

2017年08月07日

7月9日(日)

お盆法要が勤められ、新盆を迎えられた方々をはじめ大勢の皆様がお参りくださいました。仏前で共に手を合わせ仏法を聴聞するご縁をいただくということは、私たちを導いてくださる諸仏として亡き人と出会っていく新しい関係の始まりです。
ご法話は藤本愛吉先生(三重県・正寶寺住職 / 京都大谷専修学院元指導主事)。生活実感のなかでの仏法の受け止めをお話しくださいました。

〈法話聞書〉文責・専行寺
・「自分の人生に悔いはないか?」 昨年、心臓の手術をする前にこんな問いが湧きおこってきました。愛知の真宗門徒の農家に生まれ、36歳で浄土真宗の教えに会いたいと思い、一念発起して京都の学校で学んでお坊さんになりました。コツコツと勉強させてもらうなかで素敵な念仏の先生にもたくさんお会いすることができました。そして門徒さんに迎えられて、寺という自分の生きる場を与えられ歩んできました。いのちのギリギリのところで、そんな問いが湧きおこってきたのです。「ひとさまに一杯迷惑をかけてきたけれど、自分なりによう頑張って生きてきたかなぁ」と。そんな思いと共に麻酔で眠っていきました。手術後、裸で仰向けの自分の姿を見て、大きな赤ちゃんだと思いました。赤ちゃんなら赤ちゃんらしく何でも受け容れようと決めました。ここは仏様の教えを聞いてきて良かったなと思います。頭を使っちゃうと「なんでこんな目にあったんや」「なんでこんな体なんや」と悩むんです。仏さんの世界は「選ばず、嫌わず、見捨てず」だと聞いてきたので、身動きできない赤ちゃんにならせてもらおうと思いました。
・赤ちゃんとなって初めて飲んだ水は、これまでで一番美味しい水でしたね。ある先生が「いのちはみな繋がっています」「無味こそいのちの味です」と仰っていたことを思い出しました。当たり前にしていた水が新鮮そのものだったんです。生きていることはすごいことだなぁと改めて思います。仲野良俊先生が「何が不思議かと言ったら、こうして生きていること以上に不思議なことはないじゃないか」とよく仰っていました。皆かけがえのない一人一人として、この地上に生を受けて生きています。当たり前のように思って何も感じていなかった水を「これが水の味だ」と感じた。「いのちの味」です。私たちはいのちの新鮮な躍動を、咲きほこる花や採りたての野菜、生まれたての赤ちゃんに感じます。でも実はお年寄りだっていのちを生きているのですから、そのいのちは新鮮でピカピカなはずです。しかし、私たちの心が「何十年生きてきた」という思いをかぶせてしまうものですから、いのちのピカピカが見えなくなるのです。

・念仏に生きている人に出遇わなかったら、私も仏法なんてまったく聴くことはなかった。24歳の時、仏法を語り静かに「南無阿弥陀仏」と称えておられた先生のそのお念仏が響いて、ずっと私の人生を支えています。そういう「いのち」があるんだ。どうか目覚めていってほしいというのが仏様の願いです。お釈迦様が目覚めて「これが本当だなぁ」と。それを言葉にしたものが教えとなっているんです。「仏法」が「仏教」になった。目覚めて生きていく歩みを「仏道」といいます。これはお寺の所有物ではありません。いのちに根差した教えです。だから誰にでも響いていくものなのです。

・黒人解放運動のマーチン・ルーサー・キング牧師の『自由への大いなる歩み』という本を読んでいたら、面白い言葉を残しておられました。「人間はみなつながっている。あかの他人はひとりもいない」と。だから、キング牧師は白人がいくら暴徒化しても、白人を逆にいじめることは自分を傷つけることと同じだから、私は傷つけないと書いていました。まったくお釈迦様とひとつです。行き着くところにいくと、みな同じ言葉になって同じことを教えてくれるんだなと感動しました。私たちは当たり前のように生きて、少しでも楽に、少しでも楽しくと、どんどん欲望を広く使っていますけれど、根っこにあるいのちは、今ここにあることが本当に素晴らしいことだ、ここに安んじて生きていようと教えられているんですね。
・こうした法要を通して、亡き人を偲ぶなかで、今生きている事の確かさを確かめ合ったら、日々の新しい生活の中で何が大事なのか見つめ直していけるのです。

※次回の定例法要は、9月22日(木)秋分の日に勤められる秋彼岸法要。法話は渡辺誉先生(真宗大谷派東京教区駐在教導)です。
ぜひお参りください。

 

2017お盆4
2017お盆1
2017お盆3
2017お盆5
2017お盆蓮