生のみが我等にあらず
死もまた我等なり
我等は生死を並有するものなり
清沢満之
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生のみが我等にあらず
死もまた我等なり
我等は生死を並有するものなり
清沢満之
1月1日(火)元日
10時より「修正会(しゅしょうえ)」が勤められました。
新年を迎え、仏前にて心静かに自分自身を見つめ、1年の歩み出しを始める法会です。
式次第は、➀開扉 ➁静座 ➂三帰依 ➃勤行 ➄献杯の儀 ⑥法話(住職挨拶)。
終了後、書院にてお汁粉(ぜんざい)が振る舞われました。
1月14日(月)成人の日
「2019年新春法会」が勤められました。
式次第は、➀勤行 ➁献杯の儀 ➂挨拶 ➃落語 ➄懇親会(福引)
落語会には林家正雀師匠とお弟子さん方が出演され、本堂に笑顔があふれる華やかな催しとなりました。終了後の懇親会では福引も行なわれました。
専行寺では、本年もさまざまな行事や集いが開催されます。ご参拝を心よりお待ちしております。
2019年お正月の行事は、元日恒例の「修正会」に続き、14日(成人の日)に「新春法会(新年初参り&落語会)」が開催されます。林家正雀師匠とお弟子さん方がお越しくださいます。新年の献杯と福引もどうぞお楽しみに!皆様ぜひお誘い合わせてお出かけください。
※詳細はこちら→新春法会2019
11月3日(土)文化の日
宗祖親鸞聖人の報恩講(757回忌)が勤められ、大勢の皆様がお参りくださいました。ご法話は昨年の報恩講に引き続き竹部俊惠先生(妙蓮寺住職・本願寺横浜別院 前輪番)。富山県南砺市の井波からご出講くださいました。また当寺にて「活き活き尺八教室」を開催されている工藤煉山さん(都山流尺八演奏家)の尺八演奏が奉納されました。
〈法話聞書〉文責・専行寺
・人間のいのちの営みというものは、日常の私たちの価値観(ものさし)を超えているものです。「いのちはいただいたものである」と仏教では説きます。私の意志でここに生まれてきたのならば「私の力でいのちを誕生せしめた」といえるかもしれません。考えてみれば、私は両親からいのちをもらってこの場にいる。その両親も4人の祖父母からいのちをもらっている。その祖父母にいのちをくれた曾祖父母が8人。私が誕生した時からいのちは誕生したのではなく、私の誕生日にいのちが私となって生まれてくださったのです。そのようにいのちを捉え直しをするのが仏教です。
・私たちにまで受け渡しされてきたこのいのちは、人類全体の歴史を持っている。地球全体、宇宙全体の歴史を持っているともいえるでしょう。そういう歴史を経て、この私にまで届いてくださったいのちとして捉え直しをしたら、私がいま「生きること」についても見方が変わりませんでしょうか。例えば、膝が痛くなれば、私たちはすぐ「困ったもんだ」となります。しかし考えてみたら、この膝は何十キロもの体重を何十年間も支えてきてくれた。こう捉え直すならば、むしろそのことにまったく気付きもしなかった私こそが「困ったもんだ」ですね。捉え直しをすると、自分の思うようにならないことは、むしろ私の姿を知らせてくれる大事なはたらきだと教えられるのです。
・自分の曾祖父母8人の名前を全員言える方はいらっしゃいますでしょうか。難しいですね。記憶力の問題ではありません。私たちは知識としては「いのちは繋がっている」と知っていても、私の感覚としてはまったく遡ることはできません。しかし、いのちがずっと悠久の歴史を経て私まで届いているのは事実です。三帰依文に「人身受け難し、今すでに受く」とありましたね。「人間としてこの世に生をいただくことは本当に難しい。しかし今すでに生まれてきている」そのことへの感動がありますか、と。これが私たちに対する仏教の最初のメッセージです。
・南無阿弥陀仏の教えは、手を合わせれば、思い通りに快適な生活をさせてあげますなんていうことは言いません。むしろ思い通りにならないようなこと、身の上に起こっていることにきちんと向き合うことが、私に本当のことを教えてくださる。そのことを「有ること難し」とか「阿弥陀さまからのご催促」という言葉で表現してきました。植物でいえば、目には見えない根っこの部分に気付いてほしいということです。咲いた花が大きいとか小さいとか、綺麗な色だとか、そういうことは生老病死の道理の前にすべて色褪せてしまいます。そうした移ろいの人生であるからこそ、常に確かな教えに出会っていく生活をしてほしいという呼びかけが南無阿弥陀仏です。
・悠久の歴史を経て私に届いたいのちですから、私が亡くなっていくということは、いのちの故郷に帰らせていただくことです。仏となって真実の世界に生まれていく。それを「往生」といいます。そのことを一番大切な事「後生の一大事」という言葉で私たち真宗門徒は教えられてきました。先送りできない「いのち」の問題、それを「今生」にこそ聞かせていただく。私に起こってくるすべての出来事は「仏さまからのご催促」であったと教えられながら、精一杯生かさせていただくのです。悠久の歴史を経たいのちを「阿弥陀仏」といいます。阿弥陀仏自身が「南無せよ」と仰ってくださっている。「教えに従って全身を委ねよ」「信頼せよ」と仏さまが仰ってくださっているのが南無阿弥陀仏です。現実生活のすべての出来事が「仏さまからのご催促」と引き受けるならば、今まですべて私の価値観(ものさし)で善悪・損得と測っていた生き方がガラッと変わってきます。すべてがご催促、私を促してくださるものであったと教えられる場所に立つことができる。そういう生活が開かれてくるのです。
・蓮如上人のご門弟・赤尾の道宗さんは『心得二十一箇条』の第一条に「後生の一大事、いのちのあらんかぎり、ゆだんあるまじき事」と示されました。意訳すると「今こうしてぬくぬくと生きている私たちのいのちは必ず終わる。たった一回の人生が、たった一つのいのちが終わったあと、私は、私のいのちはどうなるのか。そのことを今しっかりと聞かねばならん。今ここにこうしてぬくぬくと生きている私の大事な大事ないのちのことを」(『妙好人 赤尾の道宗さん』より)
・一般的に宗教というと、私たちから仏さまに願いをかけるものと考えます。本当は仏さまが私たちに「どうか気付いてください」と願っておられる。そういただけるならば、私たちの毎日毎日の平凡な生活が、実はそのまま仏様の教えに出遇っていける仏道を歩ませてもらう場だというように変わっていくんですね。一回きりで限りのあるこの娑婆でのいのちです。そのいのちを生きる今ここで教えに出遇ってこそ、生きていくことの意味も捉え直すことができ、亡くなっていくこともまた仏さまの真実の世界に生まれさせてもらうことといただけるのです。
・この私のための教えであったと頷けた時に、親鸞聖人のおこころに報いていこうと歩みを進めていくことが始まるのです。そのことを確かめていく集いが今日のこの報恩講なのです。
※次回の定例法要は2019年元日に勤められる「修正会」。引き続き1月14日(月)成人の日には「新春法会(落語会)」が開催されます。ぜひお参りください。
この世に自分として生まれ出て
ここにあるということが喜べるようになる
これは自分でなければやれない仕事です
近田昭夫
9月23日(秋分の日)
秋の彼岸法要が勤められ、大勢の皆様にお参りいただきました。仏前で手を合わせてお念仏申すご縁をいただくということは、私たちを導いてくださる諸仏として亡き人と出会う、新しい関係の始まりでありましょう。法話は「彼岸を迎えて」と題して、専行寺住職(平松正信)が勤めました。
〈法話抄録〉文責は専行寺にあります。
・「彼岸」とはサンスクリット語「パーラミター」(波羅蜜多)の訳語「到彼岸」を略したものです。迷いの此岸から悟りの彼岸に至ること。『観無量寿経』の日想観(西に沈む太陽を通して阿弥陀仏の西方浄土を観ずること)に由来し、太陽が真西に沈む春分と秋分の日を中日として前後3日、計7日間に修される法会が彼岸会です。悟りの世界に向かう仏道修行の行事。仏道修行というと大袈裟に感じますが、彼岸(浄土)を憶念することを通して、私たちの迷いの世界。迷いの姿を教えられる法会です。
・お経とはお釈迦様のご説法の聞書です。正信偈は厳密にいえばお経ではありません。いわば親鸞聖人が作詞された念仏讃歌、仏教讃歌です。浄土真宗のさまざまな行事で読み継がれてきましたが、特に朝晩のお勤めでも読誦されてきました。朝のお勤めはお寺だけのものではありません。私たち真宗門徒は毎朝お内仏(仏壇)の扉を開いて教えの言葉をいただき、生活の中で自分の姿を照らしてくださる仏さまの眼差しを大切に歩んでこられたのです。
・「経」の原語はサンスクリット語の「スートラ」。音写されたのが「修多羅」という言葉です。仏教では音写された言葉がたくさんあります。「南無阿弥陀仏」も「ナムアミターバ」「ナムアミターユス」という言葉の音写。直訳すると「限りなき光と命の仏に帰命(信順)します」という意味の言葉です。現代でも音写の言葉が生まれます。「勿体ない」や「生きがい」という日本語も音写されてローマ字でいろいろな国で使われていますね。音写をして原語の意味を損なわないように大切に伝えていくわけです。
・「スートラ」という原語の意味は「縦糸」。糸によって貫き保持することです。「経といふは経(けい)なり。経(けい)よく緯を持ちて疋丈を成ずることを得て、その丈用あり」中国の唐の時代の善導大師のお言葉です。「経」というのは縦糸。縦糸はよく横糸を貫きたもって布を織りあげていく。そうして織りあげられた布がはじめて用をなしていくものである、と。私たちの人生を布に譬えられています。横糸とは私たちが毎日出会っていく出来事といえましょう。横糸だけでは決して布は織りあがりません。毎日の出来事に一喜一憂するだけ、その場しのぎで人生を終えていくことにもなりかねません。縦糸は表には現れませんが、それがしっかりと張られずに横糸をどれだけ渡しても、その布は用をなさない、完成しないということです。
・私たち人間は業縁存在です。縁によって、どこへどう転んでしまうかわかりません。だからこそ、この私の生涯を貫く縦糸・よりどころとしての「経」をいただいていくことを教えられるのです。毎日の生活の中ですべて自己関心に終始しているような私たちを立ち止まらせ、この私の布(人生)を完成していく大切な課題として横糸をたもち、促しはたらきかけてくださる仏さまの眼を「経」からいただいていくのです。
・インドでは生活の中で左右の手を使い分けているそうです。右手は神聖(清浄)な手とされ、人と握手したり食事する時に使います。不浄な手とされる左手はトイレなどでお世話になります。その左右の手を一つに合わせるのが合掌なのです。インドの人たちの挨拶では、必ず合掌して「ナマステー(あなたを敬います)」という言葉が交わされます。初対面の人同士でも「あなたとの出会いを大切にしていきます」という心で交わされるのでしょう。考えてみれば、私たちはいつも自分にとって「良いか悪いか」「好きか嫌いか」「損か得か」と物事を分け隔てして見ています。合掌で両手を合わせるということは「私はあなたを、良い悪い、好き嫌いなどと分け隔てして見ていませんよ」と表現している姿のようです。本当に相手を敬う心は、物事を分け隔てする心からは生まれないことを教えらているのではないでしょうか。
・物事をありのままに見ることなく、自分にとって都合のいいものか悪いものか?と分け隔てし評価していく私たちのものの見方、比較していく心を仏教では「分別(ふんべつ)」と教えられます。人間皆モノサシが違いますが、同じ一人の人間のモノサシでも、その時の都合によって目盛がコロコロと変わるような不確かなものです。
・「役に立つか立たないか」「生産性があるかないか」「効率が良いか悪いか」こうした分別のモノサシが現代では特に幅を利かせているように感じます。8月に国連で、AI(人工知能)を搭載した「殺人ロボット兵器」を禁止するか否かが協議されました。相手を殺すか殺さないかの決断をロボット(機械)に任せるのは人道に反するとして禁止を呼びかける国々に対し、日本は「正しく使えばより正確に攻撃し巻き添えを減らすことができる」という趣旨で慎重派に回ったそうです。つまり「より効率的に戦争ができるなら」といって殺人ロボットを擁護したわけです。憲法で戦争と武力行使を放棄しているにもかかわらず、このような発言がされたと聞いて驚きました。無人機やロボットに身内を殺された人々は、その復讐の矛先を手の届く民間人にテロという形で向ける可能性が高く、それもまた巻き添えなのではないでしょうか。こんなところにも当たり前のように「効率的であれば良い」という価値観があるわけです。
・最近ある女性議員が「LGBTの方々ために税金を使うことに賛同が得られるのか。彼ら彼女らは子どもを作らないから生産性がない」という趣旨の意見を雑誌に寄稿して問題になりました。そもそも「子供を授かるから生産性がある」という理屈もおかしいのですが、生産性があろうとなかろうと誰でも安心して生きられる社会を創っていくのが政治家の仕事ではないでしょうか。これも「生産性があることが良い」という価値観です。ここでこの女性議員を批判しようというわけではありません。「役に立つか立たないか」「生産性があるかないか」と人を切り刻んでいくようなモノサシは私たちの中にもあるのではないかということを申し上げたいのです。
・例えば「健康第一」ということを仰る方は多いですね。できれば私もずっと健康でありたいと思います。しかし、年を取ったり病気をして、若い時のようには動けない。だんだん役に立たなくなることは誰にでも巡ってくることです。もし人から「あの人ももうダメだね」なんて言われたら蹴っ飛ばしてやればいいのですが、自分自身がその「健康第一」という考え方に凝り固まっていたら、若い時のようには動けなくなった自分を自分自身が認められないということになっていきます。「健康第一という考え方は実は不健康な考え方です」と、ある先生が仰っておられました。自分の価値観が自分のいのちそのものを傷つけていくというおかしなことになっていくわけです。一人ひとり誰と代わることのできないいのちを、いろんなものに支えられながら生きています。そのいのちに上とか下とかいうことがあるのかというのが親鸞聖人の眼です。元気で働けるときだけ私には価値があり、働けなくなったら価値がなくなったのではないかと思ってしまう。これは偽なるもの、よりどころにしてはならないものです。
・親鸞聖人は「真と仮と偽」ということを教えてくださっています。「仮」とは一時的な仮もの。例えば、定年を迎えた方、子育てを終えた方が、そのあとに何をしたらいいのかわからなくなって虚しさに落ちてしまう「燃え尽き症候群」というものがあります。会社勤めも子育ても大事なものであり、日常生活に目標や活力を与えてくれるものですが、終わってしまえば消えていくものです。「一生を貫くようなよりどころとは何だろうか」という問いかけです。もう一つの「偽」とは偽もの。よりどころにしてはならないもの。これをよりどころとすると必ず縛られ、逆に自分が苦しむことになります。人間に対してさえも「役に立つか立たないか」と。ひどい時には「生きる価値があるかないか」とそこまでいってしまう。この偽のよりどころはそういうものを持っているわけです。周囲の人や自分さえもそのモノサシで計って切り刻んでいくことが起きる。お互いに計ったり計られたりということになります。
・「役に立つか立たないか」「生産性があるかないか」「効率が良いか悪いか」こうした分別のモノサシが現代では相当に幅を利かせ、世の中全部がそのなかで動いていますから、そういう生き方を痛ましいとも思いません。人と比べあったり優劣を競ったりしていることが愚かだとも思いません。それが「闇」です。本当に闇の中でいて光の存在を知らない人は、自分が闇にいることに気づきません。光が差すということは、今まで闇の中にいたということに気づくこと。具体的な光・太陽とかではなく、自分の今までのものの見方、間違いないと思っていることを闇に譬え、その生き方が痛ましいことになっていた、自分を苦しめることになっていたと気づくことが光に遇ったことだと譬えられるのです。仏や浄土を光と呼ぶのはこのことです。「今日から真のよりどころを手に入れました」という話ではありません。「これは一時的な仮のものだった」「よりどころにしてはならない偽物だった」ということがはっきりする。これが真よりどころとの出遇いの中身です。今までのあり方を問い返すような形で、真宗(真のよりどころ)というものが私たちのところにやってくるのです。
・「蟪蛄春秋を識らず、伊虫あに朱陽の節を知らんや」曇鸞大師のお言葉です。
夏生まれて夏死んでいく蝉は春と秋をしらない。しかし夏という季節を本当に知っているといえるのだろうか、という問いかけです。四季それぞれを知っている人こそが、今は春、今は夏、今は秋、今は冬とわかるわけです。夏生まれて夏死んでいく蝉は、春や秋冬のことも知らないかもしれないが、今が夏だということも分からずに死んでいくのではないか。これは譬えですから蝉の話ではなく我々人間の話です。人間が自我の意識で自分の価値観だけで物を見て、それがすべてだと思って生きているならば、それは本当には物が見えていない。本当に生きたことにもならないのではないか、と。
・細川巌先生が私たちの姿を譬えてくださっています。
「私たちは生まれたままでは卵の殻の中にいるような存在です。卵の殻の中にいて、幸せになりたい、と思う。どうすれば幸せになれるだろうか。できるだけ得になることを心掛けていこう。損になることには近寄らないようにしよう。そのようなことを考えながら私たちは幸せを目指して生きています。しかし、善悪、損得、勝ち負けをしっかり考えながらも、それらに振り回されて、結果として卵は腐って死を迎えてしまいます。卵は腐って死ぬために生まれてきたわけではありません。卵は親鳥に温めてもらい熱を受ける。その熱が私たちにとって仏の教えなのです。この教えを受けていくうちに、殻の中で成長していくのです。そして時機が熟してひよこになる。ひよこになることを禅宗では悟りといい、浄土教では信心をいただくといいます。この卵の殻というのは「私が、私が」という自己中心の思いです。私にとって善か悪か、私にとって得か損か、私にとって勝ちか負けかと、いつも「私が、私が」という殻があるわけです。殻の外に出て初めてひよこは自分が殻の中にいたことがわかります。そして大きな仏の世界があることを知るのです。そして大きな世界からのお育てをいただきながら、ひよこは親鳥になる。それを仏といいます」
・自我という殻の中で私たちは、好き嫌い・損得・勝ち負け・役に立つ立たない、ということに振り回されて生きています。仏の教えという温もりをいただいて殻の中で成長し、ひよことなって自我の殻の中で生きていたことを知る。殻が割れても自我がなくなるわけではありません。頭の上に殻が乗っかっているようなものです。この自我に覆われている自分に目が覚めて、問題になって、初めて人間としての本当の歩みが始まる。それを仏道と教えられるのです。
※次回の定例法要は、11月3日(文化の日)に勤められる報恩講。ご法話は竹部俊惠先生(富山県南砺市 妙蓮寺住職・本願寺横浜別院前輪番)です。ぜひお参りください。
救いとは
答えでなく問いが見つかること
答えは一生を決めつけ
問いは一生を歩ましめる
仏光寺 八行標語
生かされているということは
結論ではなく
出発点である
池田勇諦
いのちが一番大切だと
思っていたころ
生きるのが苦しかった。
いのちより大切なものがある
と知った日、
生きているのが嬉しかった。
星野富弘
7月8日(日)
お盆法要(盂蘭盆会/うらぼんえ)が勤められ、新盆を迎えられた皆様をはじめ、大勢の方がお参りくださいました。ご法話は藤本愛吉先生(三重県・正寶寺住職 / 大谷専修学院 元指導主事)にご出講いただきました。
梵語(古代インド語)の「ウランバーナ」を音写したものが「盂蘭盆」で、それをお盆と称しています。「ウランバーナ」の原意は「逆さ吊り(倒懸/とうけん)の苦しみ」で、それは「真実に背いている私たちの姿」であると教えられます。
お盆はそもそも『仏説盂蘭盆経』に説かれている釈尊の弟子・目連尊者(もくれんそんじゃ)の物語に由来します。目連尊者の母は餓鬼の世界に落ち苦しんでいました。(盂蘭盆はその姿〈倒懸〉を意味しています)。目連は母を助けたいと食物を運びますが、すべてが火や灰に変わってしまいます。どうすることもできない目連は師・釈尊を訪ねました。すると釈尊から安居(あんご)の最終日(7月15日)、百味の飲食を盆に盛り、仏や菩薩や僧などのすべての聖衆に供えるよう教えられます。目連がそれを実践すると、仏法僧の三宝の功徳により、母は餓鬼の世界から救われ、目連自身もまた愛憎の執われから解放されたといいます。目連が最後に釈尊に教えを求めたように、真実の教えにふれることがなければ、私たち一人ひとりの真の安心が成り立たないことを教えています。
私たち真宗門徒にとってのお盆法要(盂蘭盆会)は単なる先祖供養の行事ではありません。「歓喜会(かんぎえ)」とも称されるように、私にまで届けられているいのちが、いかに稀有なものであり、尊いものであるかを教えられる仏事です。そのいのちをたずね、仏法を聞き続け、私自身がお念仏を喜べる身となることを、亡き方々から願われているのです。お盆は私のための仏事だと気付かされることです。(参照 真宗大谷派東京4組発行『真宗門徒の葬儀』)
次回の定例法要は、9月23日(秋分の日)秋彼岸法要です。ぜひお参りください。